『将太の寿司』と『将太の寿司2』におけるクズの違いから作風を読み解く

本日二度目の投稿。私は何に取りつかれているのか。以下の記事には書ききれなかった部分を書いときます。

よく『将太の寿司』の『将太の寿司2』違いとして(私の脳内で)よく語られるのが絶対悪と呼べるようなクズキャラの有無です。さっと見ると一見『将太の寿司』がクズの宝石箱なのに対し『将太の寿司2』はマイルドに見えます。しかし果たしてそうなのでしょうか?

『将太の寿司』に紺屋碧悟っていうフォローしようのないクズがいるんですけど、こいつのクズってとにかく「自分が一番じゃなきゃ気が済まないし、自分以外の才能は存在すら許せない」っていうただそれだけのプライドによるものなんですよ。損得とかじゃないんです。

ぶっちゃけ言えば碧悟くん大口叩くのにふさわしい才能はちゃんと持ってるんです。あんな煽り属性高い嫌がらせするから陰に隠れていますが将太の寿司のライバル群の中でも実力自体は結構高い方。実際寿司をやめた後驚きのスピードで日本料理の技術も習得してるし、すべてを失い無一文になった後で改心すると裸一貫から元の碧寿司を再建してるし間違いなくすごい男なんです。性格の悪さでかなり損をしている。

リスクの高い妨害工作するより普通の勝負した方が勝ったとしても負けたとしても自分に傷はつきません。損得考えれば買収相手に領収書出してまで嫌がらせとか割にに合わない(領収書出してるの真面目か)。実際妨害工作ばれて寿司業界・日本料理業界追放されてるんだし。アホだとしか言いようがない愚かさがクズでもなんだか憎めません(いやでも傷害事件も起こしてるしやってる事は犯罪)。

もっと言うと『将太の寿司』の悪役たちって相手の妨害もするけど自分たちの食材や職人の腕を高めるって事にも手抜きはなくて意外と誠実なところあると思うんですよ。笹寿司とか金に飽かして最高の食材を用意してやったぜ! って高笑いはしても産地偽装して儲けを出すとかそういうのはしないじゃないですか(ちなみに『喰いタン』にはそういう店出てきます)。現実社会で笹木が本気で将太をつぶそうと考えるなら寿司勝負なんていう将太と同じ土俵に立つのは効率が悪すぎる(自分たちの食材も完璧にするぜ!ってやるの律儀だと思う)。なんというか本当にファンタジークズなんですよね。悪役として生きるために生み出された存在。物語を動かすためのピースなんです。これは善人キャラも同じです。

『将太の寿司』において笹寿司や紺屋、武藤などのクズキャラがあんなにひどい事をしたにもかかわらず救済されるのは職人技と食材へに対しても妥協を許さないというその一点が守られているからだと思います(やり方がめちゃくちゃ間違ってたり、驕りから最後の一手を忘れたりはしますが少なくとも当人たちはできる事を全力ではやってるつもり)。

実は将太の寿司初期にネタや美味しさの向上もそこそこに相手のネタを落とすことをメインとして勝利したキャラがいてそれが鳳の親方の先輩である清川(鳳の親方にわざと劣るネタを提供した上で寿司勝負をした)。息子に対しても技術を教え込んではいるものの目的は完璧に鳳寿司を潰すため。ただそれだけの為の寿司マシーンである早握り野郎の息子からも食材へのこだわりとかはあんまり感じません(結局味で負けます)。結局この清川親子はクズ度で言えば紺屋とどっこいどっこいでありながら改心描写もなく、一回きりの出番で消えてしまいます。どんな形であれ味に対する向上のないライバルキャラは消える運命なのが『将太の寿司』の世界。一見救いようのないクズであっても寿司至上主義というキレイごとの枠の中にいるのです。

ところが『将太の寿司2』(というか『将太の寿司』以降の作品群)では人間描写が段々現実的になってきます。物語世界に実際に生きていると感じさせる、そういうキャラクターになってくるのです。

例えば『将太の寿司2』フランスブルターニュ編に出て来る漁師たち。引網で捕られた死んだ魚よりも一本釣りの方がより魚の鮮度を生かした商品になると主張する佐治将太を一蹴します。フランスでは死んだ魚も生きた魚も値段は一緒。生活の為には味より量だと。

この漁師さんたちの言う事はもっともで悪役というくくりにするのはちょっと違うかもしれないですが、美食の国を誇りながら仕事に対してプライドもなくただ生活の為に漁をしていることに何の疑問も抱かない彼らは現実的なラインでの「クズ」です。

現実に生きる「クズ」は確かにパッと見はなんてことないし、インパクトは弱いかもしれないですが相手に与えてるダメージは実は『将太の寿司』より『将太の寿司2』の「クズ」の方が高いんじゃないでしょうか。

何せ彼らは悪じゃないですから勧善懲悪でとっちめることはできないし、決定的な解決策というのがなく、『将太の寿司』の時のように相手を打ち負かす為の手段すらわからない。ブルターニュ編でも寿司の真のうまさをベイユの爺さんは最後まで完璧に理解することはありませんでした。

『将太の寿司2』に出てくるキャラクターは物語世界での実際の生活を感じさせる言動をします。だから自分の人生が壊れるような無茶はしません。足が地についてるし、理想より利害が優先します。だからこそ正解のない苦しみに苛まれるのです。

なんというか『喰いタン』でも感じたんですが寺沢先生はだんだんと料理というもの自体よりそこに生きる人間たちを描こうという方向にシフトしていたのだという事ここにも如実に感じますね。料理というモチーフはたまたま先生が描き慣れた得意な題材だから選ばれているだけで表現したい事はそこではないんです。キャラクターがお話を面白くするために配置された駒であった『将太の寿司』時代とはそこが違うのです。

誤解しないでほしいのですが別にキャラクターを駒として配置することは全然悪い事ではないです。作劇方法が違うだけで立派なテクニックです。それが作風というかその作者の個性ですから。特にギャグ漫画なんかでは登場人物に下手に感情移入させると弊害が大きいのであえて駒として扱う事が多いくらいです。スターシステムなんかが最たるものかも。

かような部分にも『将太の寿司』と『将太の寿司2』が似て非なるまったく違う物語なのだという事が現れています。単に『将太の寿司』時代に突っ込みたかった事をつっこみまくっているとかそれだけじゃない。根本的に違う構造の物語と言えます。

上記で佐治将太の寿司の味を理解できなかったベイユ爺さんはさながら『将太の寿司』ファンで『将太の寿司2』を面白いと思えなかったファンみたいなものですが、ベイユ爺さんは最後にこんな風に語っています。

「実を言えば君の寿司の美味しさがワシには分からなかった。だがそれをいつの日にか理解したいと思った。それは君が命をかけてまでワシに作ってくれたからだ。いつか君のその情熱を…その寿司の旨さを……分かる日が楽しみでならない」

『将太の寿司2』の面白さは分からなくていいんですよ。上記のベイユ爺さんだって分かろうとする言っただけで最終的に理解できるかどうかは分からないのですし。

ただ『将太の寿司2』が『将太の寿司』の焼き直しに失敗したリバイバル作品によくある奴だよねーみたいな評価は悲しい。寺沢先生は少なくとも命燃やして描いてたと思う。まあプロだから結果が全てでどんなに作家が努力していてもそれを読者である我々が頓着する必要は全くないんですが、絶対に手抜き作とかそういうのではないので私も作品としては『喰いタン』の方が断然好きだけど根底に流れる熱量はしかと感じたので……理解したいと思いこんな長文を連発してしまうくらいには情熱的な作品だったとは思う。

分かりやすいクズの悪役は『将太の寿司2』には必要なかった。描けなかったのではなく描かなかったのですという事を最後に記してこの感想を終わります。

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