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大学で学ぶことは星を眺めることに似ている

放送大学で心理学を学びはじめ一年が経った。対人支援者としての知識と研鑽が足りないと駆け込んだわけだが、その判断は間違ってないぞと当時の自分を褒めてやりたい。



働きながら大学で学ぶことは、なかなかに大変である。子どもがいるとなおさら。今こうして学び続けられているのはオクサマの協力があってこそなので、感謝してもしきれない。そういえば大学に通うことを相談した時も「いいんじゃない」しか言われなかったし、何かをはじめようとした時に否定されたことがない。本当にありがたい存在だ。


中間試験を間近に控え、慌てて試験範囲を勉強しているわけだが、勉強しなきゃと焦れば焦るほど別のことをしたくなる。試験前に掃除をしてしまう悪癖が治らないことに辟易としながら、このnoteを叩いている。テーマは「大学で学ぶことについて」。



「先生、知ることは動揺を鎮めるね!」
「若林さん、学ぶことの意味はほとんどそれです」

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』


オードリーの若林氏は家庭教師をつけて学んでいたらしい。理解できないニュースや社会についての疑問に答えてもらっていたそうだ。そこで新自由主義が自分の生きづらさの原因であること知り、新自由主義の外にあるキューバへと旅立つことになる。


上記の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の一節は本当に金言だと思う。勉強することは、ただ知識を蓄えることにとどまらず、自分を救うことに繋がる。


ここでいう「勉強」は、あてもなく自分の知りたいことに手を伸ばす作業であり、とにかく早く答えを求める昨今の「勉強」とは異なるもの。回り道を嫌い効率を最優先する後者を「ファスト勉強」と呼んでいるのだが、どうにもこの「ファスト勉強」が多すぎるように思う。



まわりを見ても、皆すぐに上達したがるし、すぐに成長実感を得たがるし、とかくそれを学ぶ「意味」を求めたがる。落ち着いて考えてみると、数週間や数時間で得られる成長なんてたかが知れてるのに。そしてそのファストな欲望は間違いなく自分の中にもある。なんとも恐ろしいことだ。



そんなよろしくない「ファスト勉強」の対局にあるのが、大学で学ぶことなのではないか。と、考えている。


大学での講義は、答えから入らない。僕が学ぶ心理学部では、「心理学的に言うとこの現象の原因はこうである!」みたいな結論から入らず、ある法則を語るにしても、どのような手順で実験が行われたかから説明していく。答えに至るまでのプロセスも重視しているのだ。


あと、Twitterでよくある「心理学的にみると〇〇である」みたいな話もない。あるのは「Aという説とBという説とCという説があって、今のところCという説が有力とされている。が、最近Dという実験結果もあり、学者の中でも日々議論が行われている」といった話ばかり。



勉強していない人ほど断言したがる。ファスト勉強の行き着く先は「断定」で、勉強を進めると「不確実性」にまみれる。自分がどちらに向かっているかを注意を払いたい。



「ファスト勉強」はすぐに答えを求め、とにかく即座の「意味」を求める。今自分が勉強していることは自分にとってメリットがあるのか。学んだことは、自分にとって役に立つものか。


もちろん、悪いことではない。すぐに意味を見出せる方が楽しいし、楽でもある。楽しくて楽だからファスト勉強は対象を変えながら継続しやすい。しかし、ずっと浅いところをぐるぐるまわっている感覚が拭えない。し、窮屈である。


一方、大学で学ぶことは自分へのメリットを見出しにくい。学んだものに対してすぐに「意味」を見いだせないのである。だから継続することが難しい。



しかし、一年を通して学び続けた結果、急に意味が立ち現れる瞬間が何度かあった。おそらく、学んで得た知識が新たな知識とつながったり、生活での体験知が知識と有機的な結びつきを経たからに違いない。



そういった意味で、大学で学ぶことは星を探すことに似ている。一人で夜空を眺め続けることは孤独が伴う。なんの意味があるのだろうと途中で辞めたくなる。しかし、眺め続けるとそれが星座になる瞬間がある。その瞬間を心待ちにし、今日も教科書を開くのである。


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