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祖母と浴衣を縫う

 祖父母は、うちから電車で二時間半くらいかかるところに住んでいた。学校休みに訪ねていくのがいつものことだった。
 祖母は明治生まれの人だったので、わたしが小さい頃は、着物姿を何度も見た。流石に夏は、昔のあっぱっぱという、ゆるいワンピースを着ていたが。
 ずっと主婦で、戦時中も通じて4人の子供を育てたので、大変な時代を生き抜いてきた人だが、そういうことは話さなかった。

 高校生の時、浴衣が欲しくなった。親にねだってもよかったが、祖母に尋ねたら、ちゃんとした着物は縫えないが、浴衣ぐらいなら大丈夫だと言ってくれたので、一緒に縫うことにして、祖母におねだりをした。
 先ずは生地を買いに行かねばならない。当時祖父母の家の近所にあった「長崎屋」に行った。わたしは紺地の浴衣地に惹かれたが、祖母は、白地に細い紺の茎葉と赤黄青色の小さな花をあしらった撫子柄の生地を選んだ。後から考えると、柄合わせをしなくてもいい、初心者用の生地を選んでくれたのだろう。併せて、黄色の作り付けの帯と赤い鼻緒の下駄も揃えてくれた。
 次は生地の裁断だ。祖母は無論型紙なしで、わたしの背丈を見て、目いっぱいの長さで作らなければ…と言って、昔風の物差しを使いながら、裁ち始めた。聞けば答えてくれるが、何が何だかわからないうちに、どんどん布切れが出来ていく。うーん、これじゃあとても覚えられないんだけど…。
 多分、祖母は人にものを教えるという経験が無かったのだろう。こういう形を目指して、こうやるのだとか、ここが間違いやすいとか、こつだとか、一切なく、裁つ作業は終わってしまった。
 さて、縫い始めるらしい。傍で見てるばかりでなく、わたしもやっと作業に参加だ。先ずはどこかはわからぬ、まっすぐ縫うところをやらせてもらえた。わたしは、小学校の家庭科で使っていたエプロン型の金属の指貫を中指にして、長めの針で拾う様に縫う。祖母は、中指の第一関節と第二関節の間の手の甲側に皮の指貫をあて、短めの針でチクチクと縫う。速度の差は言うまでもないが、針目の散らばり、糸の引き具合、散々だ。祖母は忍耐強かった。
 袖は左右同じ形なので、一緒に、見習いながら縫うことになった。鏡像としての祖母の袖の縫い方を見ながら、縫っていく。待ってくれ待ってくれと言いながら。袖の場合、一番難しいのは、袂の丸みの部分だ。そこは祖母が両袖やってくれた。
 その晩、祖父母の家に宿泊した翌朝、右手がおかしい。親指と人差し指の先が真っ赤で、腫れているのだ。食事さえ不自由。指先がジンジンしており、無理矢理針を持つと、我慢できないほど痛い。祖母は呆れた顔をして、一人で縫い続けた。
 浴衣は三日目に出来上がった。わたしが縫ったのは、最初の日の、どこだかわからないまっすぐの部分と、片袖の袂の丸み以外だ。9割5分祖母が縫った。わたしの浴衣の作り方についての知識は、完全皆無のままだった。

 欲しかった浴衣だが、高校生と日本での大学生の期間は、着るチャンスがなかった。でも留学生となって、浴衣一式を外国に持っていき、色々な行事に衣装として着る機会に恵まれた。着る度に、祖母と一緒に縫った(わたしは5%貢献だが)ことを思い出し、異国で祖母がなつかしかった。

 帰国し就職し、年齢が撫子の柄に合わなくなっても、捨てられなかった。祖母は亡くなり、また外国に仕事に行き、子供の日本人学校の親睦現地校の生徒さんとの交流会で子供が身に着けた。そこで、長年畳んだままにして、経年劣化した染料が、別の部分に滲んで色移りしてしまったことに気が付き、子供の交流会後処分せざるを得なかった。

 祖母というと、撫子柄の浴衣が目に浮かぶ。


 
 

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