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縁あって、繋がって

高校時代は何でもなれる気がしてた
悩むと言うのは無駄な時間だと思ってた


やりたいことを決めていたから、それに向かって
余所見せずに、最短ルートは何だろうか?と考えていた

ポイっと、願書をテーブルに投げた。

『なにこれ?』

「年間100万。ここ行く」偉そうに、100万出してと言わんばかりの過去の自分。自分で出しなさいと言ってやりたい。親には申し訳なかったなぁ。

『決めたのね?』

親からの条件は、まず進学すること

・家を出て行かないこと

・県内であること

・食いっぱぐれなない仕事に就くこと

だった。本当は北海道へ行きたかったが、絶対ダメだと言う。学費を捻出してもらう以上、ワガママは言わないし、当然かなと思った。自分の希望を半分も満たしてなかったが、ミッションと、〜したいは別会計なのだ。

親には感謝してるし、バブル崩壊時の大変な中、学ばせてくれたのだから。小学校、中学校と転校が続き、生き難い時もあったけど、あの時のことを思い出せば、どんなに困難でも乗り越えて行けるし、何だって出来ると思った。

だが、メンタル的には無理をしたことに気が付かずに過ごしたせいで、未だに、人を斜めに見る癖が直らない。骨折に気が付かずに骨がそのまんまくっついた感じだ、だから多分、ココロが屈折、つまりは骨折してるんだと思う。裏を描くまでは行かないが、そんな簡単に信じない。よく言えば、用心深いと言えるだろうか。

前向きに、そう思うことにしている。それも問題かもしれんがな。

思うようにならない事も多かった。結局、コレが後々、尾を引く。ずっと。良くも悪くも。そして時々痛む。古傷だからね。

イジメに限らず、型にハマりたくない自我の強い自分にとっては、これが人生最大のキーとなる。でも耐えていられるのは、何事も自分のせいだと感じるからだ。人のせいにはしなかった。自分が変わっていけば周りは変わるのだ。柔軟に対応するよう心掛けないと。

ビルの屋上に立って、一歩踏み出したら空を飛べる。

この柵から解放されるのだろうか。

メイビー、自分は所謂鬱状態だったと言える。

人の悲しむ姿を見ると、出来る事はしてやりたかったし、人が苦しむ姿を見れば、出来る事はしてあげたいと思っていたし、実際行動にだってした。

世間はどうしてこんなにも無関心なのだろうか?

道行く人を眺めては、全て他人事か、と世知辛い世の中だね、そう思った。

ある時、人が倒れていたのを見て助けようとした。自分でさえ倒れそうなのに、まだそんな気力はあったのかと驚く。余力を振り絞って助けに向かう。年齢が上がるにつれて、人間関係は更に難しくなる。

その行動の一部終始を見ていた、お役所のお偉いさんが

『どうして、そんな行動が出来るのか?』続いた言葉は『お前、自己満足のために、周りに迷惑掛けてるって気が付かないのか?』

後にも先にも、この言葉は度々考えさせられるものになるが、当時はそれ程オトナではなかった。

「人が倒れていれば、助けるのは自然な事だと思っていた。貴方が思うほど、自分は大人ではないから。それに、そんな考え方しか出来ない大人になんてなりたくないよ」頭に来ると、ゆっくりと大きな声で主張する癖があるせいか、この程度にしておかないと相手の人格まで滅多斬りにしてしまいそうだった。それ程に腹が立ったのだよ。あの当時は。子供だった自分なりにベストを尽くした回答だった。

お役人は、軽蔑の眼差しをこちらへ向けると踵を返して行ってしまった。歳をとった今振り返ってみると、もっと言い返して万倍返ししてやれば良かった。とも思うが、これも何かの縁、あんなオトナにはなりたくない。

反面教師にすれば良いのよ

母さんに言われた。そんな言葉で納得するか?と思うが、これが不思議と今なら分かる言葉なのだ。

多分、この当時
考え過ぎることが多過ぎて
嫌いなオトナが多かった。

だけど
敵対したところで、解決しない。
なので、この後どんどん弁が立つようになり
オトナってのには、大変不評な皮肉屋でクソ生意気な若者に育ちます。


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