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ドイツに住んでいると差別されることもあります。

先日、フランクフルト近郊のハーナウ(Hanau)で発砲事件が起きました。

このように意図的に攻撃してくる人もいれば、無意識に潜在意識として持っている人もいます。攻撃してくる人は一部ですが、誰にでも差別する側になり得ます。

今回記事にしたいのは

ほとんどの人が区別しているということ。その区別が受け手によって差別にもなりうるということです。

ドイツに来てからこのことについてとても考えるようになりました。

※ここでは「差別=特定の人・ものを不当に扱うこと。区別=他と分けること。」とします。


ここからは僕の経験したことを話します

①幼稚園年少くらいの子に差別的な言葉をかけられた。

これは少しショックでした。

差別的な言葉に対してではなく、考える能力が発達している最中である子たちから言われたことに対してです。

大した意味も分からず気を引くために言ったと思いたいですが、子どもが発するということは近くにいる周りの大人も発することがあるのでしょう。

とても残念です。

言われたときに子ども達にそういう言葉は使ってはいけないと言うべきだったかもしれませんが、唐突に言われると実際そうはいきません。ましてや名前も顔も知らない子に対して言う気力はありませんでした。

②試合中に指示を聞かない選手に「日本人みたいに理解してないのか」と監督が選手に放った一言

これは昔の話。監督は冗談で言ったので、「ごめんそういう意味ではないから」と直後に訂正しました。

僕は苦笑いで過ごしましたが、監督はそんな気が無くとも受け取り手の問題で変わると思った一件です。

この時、僕はかなりショックでした。

他にも電車乗ろうとしてすれ違い様に文句を言われたり、知り合いが意図的ではなく差別用語を使われたがドイツ語を理解してないためにやり過ごしたことを間接的に聞いたりしました。

言われたときに怒って立ち上がることも必要かもしれませんが、とても労力が必要でいつも出来るわけではありません。

僕も区別しているということ

ドイツでこういった経験をするまでは日本人として見られたいと思っていました。

「○○人ですか?」と聞かれたときに「日本人です。」

と少し強い口調で言ったこともあります。

ヨーロッパに住んでいる人がどこの国出身か見分けがつかないように、他の地域の人からしたらアジアのどこの国かなんて判断できません。

ドイツに関して言えば

移民してきた人たちの子どもはドイツで育ってドイツ国籍を持っている人がいるので見た目ではとても判断できません。

最近は○○人だと言われることに対して特に気にならなくなりました。

こういった経験を通して、外国人のモノマネや話し方が変だのということに対しても笑えなくなりました。

他のアジアの国の人に対して以前は抵抗感があったのも事実。

ほかにも無意識的に区別していることもあると思います。

よくニュースになる「○○する気はなかった。」というのを聞きますが、すべては受け手が感じるということ。

数が多ければ誰しも気にならなくなること。

区別も場合によっては差別になりうるというのをドイツに来てより感じるようになりました。

こういう考え方ができるようになったのは日本を出てドイツへ来て、違う立場から物事を見るようになってから。

これは僕にとって大きな収穫です。

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