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個人に内在する「神」とそれに対する祈りの関係性

【問】あなたには、好きなアーティストや活動者、作家はいますか?


※先に断っておくと、宗教・スピリチュアル的な話ではない(と思う)ので、そういうのが苦手な方はご心配なく。むしろ読み進めていただけると嬉しい。


 以前、「死」というものを「影響の損失」と捉えて、文通のような形で対話をしたことがある。その思考と対話の記録でもある。

例え話をしよう。
冒頭で思い浮かべた人を当てはめて考えてみて欲しい。
彼らが、生物としての「死」を迎える前に、「引退」「脱退」をしたとする。
あなたは、この「引退」「脱退」に対してどのような感情を抱くだろうか。

もう、彼の音楽が聴けないのかと涙を流すのだろうか?
もう、彼に会うことはできないのだと悲しみを嘆くだろうか?
もう、彼の紡ぐ言葉や創造する世界を見られないと絶望するだろうか?

もちろん彼らの作品は残り続けるし、実際に生を終えたわけでもない。新たに作品は生み出されないにしろ、何処かでは生きている。
それでも、私たちは嘆き、悲しみ、絶望する。かもしれない。
新たな門出を祝う人たちも居るだろうが、その気持ちが100%とは言い切れないのではないだろうか。

 実際に、私も大好きだったアーティストが(生物としてではなく)「死」を迎えたことがある。
ラストライブは、「葬式」という名前だった。
彼は彼の手でアーティストとしての活動を終えたのだから、捉え方によっては、もはや自殺。
悲しかった。涙も流した。でも、美しかった。

対話を通して、この悲しみの原因は、彼から受ける「影響の損失」によるものだったのではないかと思い始めた。

彼の作品から一種の救いのような恩恵を享受し続けていく中で、私自身の中で彼が「神」のように内在化してしまったのかもしれない。
「これからもその救いを」と祈っていたのかもしれない。今も、ね。

祈りはいつだって自由であり、一方的。


【問】「影響の損失」を抜きにして、誰かの「死」を純粋に想うこととは?

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