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自由に。

「感謝さえも捨てなさい」
感謝こそが全ての幸せの理由であり、また徳を示すバロメーターであり、満ち足りていることを知り感謝を忘れない、それは喜びを増幅させるものである。
それも真実のひとつであると思います。感謝のバイブレーションは素晴らしいものです。しかし、五次元思考で視ると、時にその「感謝の習慣」が自分自身を縛ることがあるのです。それが「ねばならない」となった時、また、恐れからの転嫁や、宗教的な概念に組み込んでしまう時、そのようになりがちです。
何が起きても偶然でなく必然であると全てを受けとめる、この構図も、多次元的視点からすれば、宿命的一方向のエネルギーに囚われた視点といえます。

旧約聖書の「ヨブ記」では、ヨブに不幸な出来事が次々に起こりますが、それを神の恩寵とうけとめ、神への信仰の勝利としてサタンの敗北の話となっています。
しかしもし、それが、受難礼拝の指向性によって、わざわざ不幸を呼び寄せていたとしたら...

新約聖書では、イエスは、サタンに「お前が神の子ならこの崖から飛び降りてみよ」と囁かれ、「汝、試すなかれ」と言っています。つまり、自らに試練を招くことを否定しています。
自分の存在意義を「受難」の中に求めるという考え方には私も違和感を覚えます。
感謝を捨てるというのは、感謝や信仰の否定ではなく、それを自分の拠り所とすることへの警鐘です。それが逃避や依存となり得るからです。

おそらく神の意識は、良いも悪いもなく、試すことも試されることもなく、偶然も必然さえも超えて、自由意志を尊重する、人間の進化を願う軽やかな愛のエネルギーなのではないでしょうか。

霊学レターより

上記インスタグラムのストーリーにシェアしたところ、かなり多くの反響を頂きました。霊学レターの文章を私の中で咀嚼してリライトしていますので、言葉拙いところもありますが…。



最初はそうではなかったものに
気が付くと囚われていたり、無意識に縛られているようなことは、割と多くの人に当てはまるように思います。特に、真面目な方や一生懸命な方は、その純粋性ゆえに…。

精油や施術のお仕事でも
「もっと浄化しなければ」
「もっとハートを開かなければ」
「もっと自分と繋がりたい、上と繋がりたい」
というような方に割と出逢うのですが
そういう時に少し違和感を感じることがありまして
力を抜いて、ジャッジを外して
どっちでもいい、なんでもいい、くらいの意識になったら楽になりそうなのにな、、と感じることもあり
「浄化」の精油が欲しいという方に
柑橘の精油をお勧めするパターンもあります🍊

私の捉えるイメージですと
“浄化しなければ”という振動の意識がこの世界に現れた瞬間同時に、
”浄化するための事象”が立ち現れる、
という感じです。
ヨブの受難礼拝的なくだりは、そういうこともあり得るかもしれないと思いました。
(逆にいうと、自分の意識次第で、一瞬で、過去も未来も、変えることが出来るということです)


もちろん、日々自分を統合したり、クリアリングしていくこと、
満ちた気持ちで過ごすことは、とてもプラスなことだと思っていて、
それらを否定しているのでは全くなくて、
その自身の行動や思考を起こしているものが
「愛からか、恐れからか」というのを
都度確認出来ると、より自由な自分でいられるのではないかなと思っています。

そして、諸行無常といいますが、
全てのものごとは変化しとどまらないことが
自然ですので、急に変わってもよいのです。✨


少し前の土の時代までは、
→Aを解消することでBに行く→
というような一方向のエネルギー的要素も働いていたように思いますが
風の時代に入り、感覚的にも
過去も未来も超える多次元的エネルギーが強まっているように思います。

軽やかに自由に生きましょう❤️

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