匿名性のない町

先日、仕事で思春期時代を過ごした町に行った。コロナ禍などもあり、前に訪れたのは5年以上前。大学進学を機にその場所を離れた後にも何度か訪れていたが、今回は今までと感じ方が違う部分がいろいろあった。

久々に故郷に帰ってきたといううれしさはいっぱいだったのだが、同時に「怖い」という感覚があった。いつどこで誰に会うか、誰に見られているかわからないという「怖さ」だ。
そこに暮らしていたときはそれが当たり前だったし、ほぼ学校(と塾)と家という狭い範囲で生きていたから、あまり気にしたことはなかった。
近所の(今で言う)AEONに行くと誰かに会う、しばしば誰かのデート現場を目撃するというのはあったのだが、今回感じた「怖さ」はなかったと思う。

夕方散歩をしていると、パレスチナ解放を訴えてスタンディングしている人たちがいた。私も新宿で行われたものに参加したことがあるけれど、もし今私がこの町に住んでいたら、できるだろうかと思った。
私が感じた「怖さ」は匿名性のなさと言い換えることができると思う。

またそれをきっかけにして、この町に住んでいたら、「私はアセクシュアルだ」と自認するまでの道のりはもっと険しかった、あるいは遠かったかもしれないとも思った。自分以外の生身の当事者や、仲間に出会えるチャンスも少なかったかもしれない。
「#どこへ行くのと聞かれたら」と一緒に暮らす人に説明する理由も必要だし、誰か(友だちの親とかも含めて)に見られた時に「あそこで何をしてたのと聞かれたら」への答えも必要だっただろうなと思う。

その町が変わったというよりは、私の見え方や感じ方が変わったということなのだろう。今の私の将来の夢は、子どもたちにとって親でも先生でもない、困った時に頼れる大人になることだが、東京のような大きな都市よりそうでない町の方が、「サードプレイス」を必要とする子どもは切実かもしれないと思った。

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