私にとっての非婚とアセクシュアル(と、ジェンダー・アイデンティティ)の現在地

私はアセクシュアルと自認しているが、それはここ1年くらいのこと。その前から、自分はアローセクシュアルだと思っていたときから反婚で、非婚で生きると決めていた。

婚姻の平等が達成しても、別姓での婚姻が実現しても、少なくとも戸籍制度と切り離せない日本の制度の中で結婚はしない。その延長線上と私は考えているので、いわゆる事実婚もしない。そう決めていた。(この選択は私が持つ特権性がなければできない選択だと思うし、社会の構造に対して批判的なのであって、結婚する個人の選択に口出しするつもりは全くない)

パートナーシップのあり方に関係なく、いてもいなくても、どんな相手でも、みんなが同じ権利を享受できるようになったらいい。究極的には、「結婚」はいらないのではと思っている。

この私の反婚は、婚姻の平等や別姓制度の実現を目指す人たちと、同じ方向を向いていると私は思っている。既存の家父長的な制度の下で、国にとって誰が保障するに値する存在か、その線引きや優先順位付けを問おうとしているという意味において。

自分は社会に想定されていないんだなと感じると、じわじわとすり減らされる感じがする。既婚/未婚から選べと言われても、私はどちらでもない。「未婚」だと今後はするかもしれないけど現時点では、となってしまう。けど私はそうじゃない。

アセクシュアルと自認したのは、非婚で生きると決めてから5年以上は経過した後。一緒にご飯を食べて「美味しいね」と言い合える人がいたら楽しいかも、という気持ちはあるが、それ以上でも以下でもない。その相手が何人かとか、どんな性別を生きている人かはあまり関係ない気がする。というか、この人の性別が〇〇だ→ということは私が惹かれる性別だ、という感覚がないのかもしれない。

自分はアセクシュアルかもと思ってから、自分はアセクシュアルだとなるまでには、それなりの時間がかかった。「!」となったのは、いろいろ経た後に、『埋没した世界』を読んだ時。あかりさんの「わたしはあなたのことをこれ以上「好き」にはならない。もう、好きだから。」という部分で、そう!となった感覚があった。

私には「好き」のスケールが一つしかないと思っている。友だちも、家族も、同僚も、学校の先生も、好きの程度はそれぞれだけど、みんなその上にいる。「like」のスケールより上に、より高いところに、それとはまた別モノの「love」のスケールがあるわけではない。あかりさんがこういう意図だったのかはわからないけれど、先程の言葉は私のこの感覚が言語化されたような気がした。(その後に読んだ『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』のなかでも、能町みね子さんが「私のなかには、友情も恋愛も含めて、ひとつの『好き』の目盛りしかない気がするんです」と書いていた。ご自身をアセクシュアルとは言っていなかったはずだけれど)

アロマンティックなのかはわからない。多分そんな気もしている。アセクシュアルはしっくりくるけど、アロマンティックは、そうな気もするし、もしそうじゃないとしたらパンロマンティックだろうと思う。自分もみんなのように恋愛的な感情を抱くことができる可能性を、否定したくないだけなのかもしれない。中学生くらいの時に恋愛的に好きだと思ったことがある(はずの)、過去の自分を否定したくないのかもしれない。その時はそうだったのかもしれないし、別にアロマンティックかどうか確定させる必要もないけれど、自分でもわからないということを現在地として書き留めておきたい。

そして最近、アンブレラタームとしてのノンバイナリーの下にいるのかもしれないとも思うようになった。成人式前に振り袖を着て「これが人生で一番の女装だ」と親に言った19歳の時、女っぽいけど、どちらかと言えば女寄りだけど、女ではない何かだと思っていた。その後もいろいろ揺らいでいるけれど、今は「男ではない」というのが一番しっくりきている。

非婚はきっと揺らがない。アセクシュアルもきっと揺らがない。
それ以外はまだ旅路の途中という感じがしている。


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