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『大器晩成』を信じて疑わない男の、”人生はこれから”という話。


 こんにちは!タカ・マーリーです
私は現在とある総合商社のエレクトロニクス部門で営業として新規事業の立ち上げに携わっております40代半ばの会社員です。基本的に群れるのは嫌いですが、寂しがり屋でもあります。

 今日が初めての投稿になりますが、多分に漏れず今年のコロナ禍で周囲との直接のコミュニケーションの機会が激減していまして、また、1人暮らしという身の上もあり、中々普段感じていることなどを表現する機会がなく、それがストレスに繋がっているような気がしましたので、この場を利用して色々と綴っていくことを思い立ちました。

 言ってしまえば「無名のサラリーマン人生談」のようなものですので、この記事を目にして頂いた方々には温かい気持ちで読んで頂きたく思っています。因みに私は現在管理職の位置づけではありますが、出世が早いわけでもなく、上層部から特段の期待をされているわけでもなく、自虐的な表現をすれば取るに足らない存在と思います。それでも私は将来を悲観していません。なぜなら自分が「大器晩成」タイプということを知っているからです笑。これは私が勝手に思い込んでいるわけでは無く、20代前半の頃に横浜中華街で有名な算命学の易者さんが断言していたからです。「30代までは仕事をどんなに頑張っても中々報われないが、そこで腐らずに力を蓄えれば40代で飛躍する」ということでした。
 私は基本占いの類は信じないのですが、その語り口と、実際にその後海外駐在や大きな病を患った時期が見事に的中していたので、今はすっかり信じています。ですから色んな経験を愚直に積み重ねていけば、あと5,6年のうちに龍の如く昇っていけると思っています。
 
 この機会に、普段思い返すことはほとんどないですが、時のページを入社時まで逆にめくってみたいと思います。私は今年入社21年目になりますが、過去をざっくり以下の様に分類し、思い出していきたいと思います。

▼モチベーショングラフ

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① 入社~国内営業 :6年
② シンガポール駐在 :4年
③ 大手半導体メーカー担当営業 :8年
④ 総合商社に出向  :2年

① 入社~国内営業時代


 私は2000年に大学卒業⇒外資系半導体をメインで取り扱う商社に入社しサラリーマンデビューをしました。大学では文学部日本文学科という、文系の学科の中でも相当に文系色の強い学科で学んでいましたので、ほぼ対角線上にあるような製品を扱うことになりました。
エレクトロニクスにも全然興味はありませんでしたので実際不安もありましたが、営業という職種は自分にあっているのではと漠然と思ってはいたので、楽しみの方が大きかったですね。
 最初は社会人としての所作から営業の基礎まで慣れるのに必死でした。たまたま入社年は半導体バブルの年で仕事時間は長かったですが、当時の指導員の先輩が「どうせ1日の半分は仕事に費やすのだから、楽しみながら仕事をしていこう」というスタンスで接してくれたので、今思うとそういう点に大分救われていたのだと感じます。
 ところが3年以上経ってくると、業務も一通り慣れてきますのである程度周りが見えてきて、会社を辞めようと思ったことがあります。業界の構造や、自分の適性などを考えるとエキサイトメントを感じなくなっていましたね。飽きていた部分もあったのかもしれません。この時はご丁寧に引き留めてくださった方々もおり結果辞めないことに決めました。

② シンガポール駐在時代


 この時期は自分のこれまでのサラリーマン人生の中でもトップクラスにインパクトが大きい数年と言えますね。シンガポールにはそれまで旅行・出張含め1度も訪問したことはなかったですが、海外駐在には興味がありましたので、声が掛かった時はシンプルに嬉しかったです。
 その様にやる気と希望を胸に渡航しましたが、早々に出鼻をくじかれました。仕事内容はもちろんですが、その土地の文化風習に慣れるまでは大変であろうという覚悟はできていましたが、想定外の困難がありました。周囲から心配される位強く当たられていた時期がありました。
 そんな状況下でもがいていましたが、そこで救ってくれたのが同業他社の駐在員の先輩方と現地のスタッフす。彼らの存在がなければこの駐在は苦い思い出だけになっていたかもしれません。皆多忙な中合間を縫ってよく飲みにも連れて行って貰ったのも良き思い出として心に残っています。帰国して10年以上経っていますが、今でも交流は続けて頂いています。改めてありがとうございます。
 仕事面ではナショナルスタッフとのチームをドライブしながら進めていくのが楽しかったですね。文化の違いを感じることも多かったですが、思いを共有出来たと実感できた時は充実感がありました。そういう意味でも学んだことが多い数年だったと思います。

③ 大手半導体メーカー担当時代

 シンガポールから帰任後に配属されたのは、ある大手半導体メーカーの専任営業部隊でした。ここは今のところ最も長く所属した部署になりました。内部で担当顧客を変わるなどの変化はありましたが、8年以上同一メーカーを担当しましたね。
 この間、担当メーカーも自分の会社自体も合併があり刺激的な時期ではありました。グループ会社と一緒になって、それまで知らなかった方々と同部署で仕事ができるのは面白かったですね。それまで余り携わってこなかった自動車界のお作法などにも触れられ幅を広げられた実感はあります。部署の人たちとの人間関係も概ね良好だったと思います。
 それでも終盤は中々モチベーションを上げられず苦労しました。担当変更などのマイナーチェンジをしていても、8年もいると何事もある程度はすんなりできるようになってしまうので、飽きちゃうんですね。担当顧客での新規案件なんかも結構取れていたと思いますが、人事考課が良くなるわけでもなく、個人として叶えたい目標も持てず腐りかけていました。とはいえ自分自身の可能性に失望はしていませんでした。なぜなら私は「大器晩成」タイプだからです。この頃はもう40代に突入していたので、何かのきっかけが必要なのでは、と考えていました。これまでの経験上、環境の変化を乗り越えた時が成長やエキサイトメントに繋がっていると感じていたこともあり、転職も考えていましたし、実際オファーも頂いていました。そんな折に、総合商社への出向のお話を頂きました。シンガポールで大変お世話になった先輩がその会社で部長になっていて、新規事業を担当するグループを新設するということで、そこの新設グループへの出向のお話です。時折お会いしている際にボヤいてしまっていたこともあるので、手を差し伸べてくれたのだと思います。非常にありがたいことです。環境も変えられる上に、総合商社の組織で働ける稀な機会を頂けて、一気にモヤモヤしたものが晴れ、新しいモチベーションが生まれました。

 ここまでが今の部署に所属する前までの回想になります。こうやって思い返すと、新しい環境に身を置いた時にモチベーションが高くなる傾向が読み取れます。シンプルに飽きっぽいとも言えるかもしれませんが、新たな環境下で苦労することが自分の進化に繋がるということを過去の経験から感じているからかもしれません。
 ここでいう過去の経験の中できっかけに一番近いのが、大学生の頃に1年間休学してL.A.で過ごした事のように思えます。確固たる目的があったわけでもなく、思いつきに近い感覚での渡米でしたが、この1年間はこれまでの人生において大きなターニングポイントになった1年間でした。
当時は英語も話せませんでしたし、今の様にインターネットもまだ普及していない時期だったので、普通の生活を調えるのにかなり苦労しました。例えば住む家を探すだけでも、知り合いもいない中、手当たり次第実際の物件に飛び込んで交渉していました。管理人が同じ物件に住んでいる場合、交渉できたんです。日本にいれば当たり前のようにできることが、苦労の末ようやくできるということばかりの生活でも、続けているうちに言葉も覚え、苦労が楽しくなってきたんですよね。出来なかったことが出来るようになる喜びというか。
 そういう生活の中で、自然とポジティブな思考も身に着いたと思います。それまでの数年間は覇気のない毎日を過ごしていました。塾通いもしたことのない勉強嫌いな私が、高校受験の際地元の進学校に入ってしまったのですが、周りが勉強ばかりしていることもあり、正直退屈な毎日でした。特段将来の目標もなかったので、「世の中つまらんな」といつも感じていて、覇気のない日々を過ごしていました。それを大学入学後もしばらく引きずっていましたが、帰国後からは、慣れないことの「不便さ・苦労」を「刺激」として楽しめるようになったと感じています。
このような自分の性質が、今回出向の話を頂いたことでモチベーションに繋がったと思います。
 

 大器晩成を信じて疑わない男の人生はこれからです!


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