はじめてのライバルであり、親友。

彼は今どこで何をしているのだろう。幸せな人生を送っているのだろうか…

小3の時、何をどうやっても、かなわないヤツが現れた!

記憶にないチビの頃からジャイアン気質だった私は、公園などでファーストコンタクトの相手と接触をすれば、ほとんど「たたき合い」になって、泣かしてしまっていたことを、よくオカンが話していた。

うーん、・・・まぁ、そんなきらいは確かにあったのかもナ(笑)

小3で同じクラスになった「 I 」 との関係も、例にもれず、最初は当たり障りない距離だったのだが、近くなったところで、衝突!その後も火花バチバチとなった。

かけっこや数度にわたる「たたき合い」など、見事に全敗のわたし。こいつには敵わないな…と思い出してきた頃、不思議と二人の距離が大接近した。

そこからは週末になると互いの家へ泊まりに行くような間柄に変わり、ご両親やご兄妹とも面識が出来て、小3にして、はじめての大親友となっていきました。

私の時代の小3と言えば、スーパーカー自転車に乗り、虫かごや網を持ってセミやザリガニを釣りに行ったり、プールに行ってどっちが長い時間もぐっていられるか?を競ったり(この時でさえ何一つ勝てなかった)、あと花火もやったなぁ… とにかく初めての大親友とずーっと一緒でした。楽しかった!

この年ごろって、クラス替えは「世紀の一大イベント」でしたよね!

「また同じクラスになれたらいいよな!」も叶い、小4になっても仲良しは続きました。一緒に過ごす二度目の夏休みが楽しみでしかたなかった。「またザリガニ獲ろうな!」「次はセンスイ負けへんで!」など、ウキウキと待ちきれない二人に、突然、思ってもみない大事件が…

五月のある日だった。「 I 」が、伊丹市から西明石へと、すぐにでも引っ越してしまう、と言う。…わたしは哀しかったし、たぶん泣いたとも思う。

引越しの日、「また夏休みに遊ぼうな。」と小4どうしの叶うか叶わないかわからない小さな約束をした。もう忘れてしまったが、「 I 」が引っ越した次の日から、わたしはどんな気持ちで学校に通っていたのだろう。

しかし夏休みを前に、西明石の新居へ泊まりにおいで!との嬉しいお誘いの電話が入った!

小学生一人では到底、行くことが出来ない距離だったので、そこは優しいおばあちゃんにお願いした。夏休みだからねと、なんと、在来線ではなく新幹線で彼の家まで連れて行ってくれた。(天国のおばあちゃん、あの時はほんとうにありがとう。)

一泊でしたが、初めての玉子焼き(明石焼)をほおばったり、二日目の早朝は「 I 」の叔父さんが、私らを海釣りに連れて行ってくださり、夕飯にはその日釣れたハゼを天ぷらや塩焼きにして、お腹いっぱい食べさせてもらい、今でも忘れることのない楽しい夏の思い出となりました。

だけど楽しい時間は、すぐにお終い… 

もう距離や場所がわかったから来やすいでしょ?と、向こうのお母さんがおばあちゃんに言ってくださって嬉しかった。「こんどは山へ行こう!」と、次の約束をして西明石の駅を後にした。

その二度目の約束のウキウキの前日、キッチンにいたおばあちゃんとオカンが「あんた、この記事みてみぃや。」と夕刊の地方頁のホントに小さな欄に目をやっていた。

「これ「 I 」君のお父さんちゃうか…」

見出しに銀行強盗の4文字が見えた。映画のタイトルのような記事を広げたダイニングテーブルが、なんとも言えぬ、最初で最後の不思議な空気に包まれた。

優しいおばあちゃんは、同じ苗字の人は何ぼでもおるよ、と呆然とする私を慰めてくれたが、夕方5時のニュースで、そのニュースが取り上げられ、愕然とした。

そのあと電話が鳴った。電話口に出たオカンに、向こうのお母さんから「明日は都合が悪くなった」との話があったようだ。何故か向こうのお母さんも、うちのオカンも「 I 」とは話させてはくれなかった。

真相は分かりません。

結局、「 I 」とは、あの楽しい夏休みの帰りに西明石駅で手を振ったのが最後になってしまった。あれから40年…今でも「 I 」を本当によく思い出すし、愛する妻にもあの夏の思い出を何度となく語っています。

同級生のその後の40年が、有意義なものになっていること、どこかで幸せに暮らしていることを心から願っています。

結果として、ほんのいっときだけの友情でも、人間の根幹をも形成することがわかりました。


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