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お花巡り 蓮の花

三渓園は蓮の花が咲く7月に朝7時から開門して早朝観蓮会を開催している。蓮の花は早朝に花が開くので早朝に来て蓮の花を観賞したい。

三溪園は本牧にある、本牧は米軍に住宅地として接収され電線の無い街になっている。さくら開花時の並木道が綺麗なところだ。

資料館によると米軍は横浜に空襲をしたが占領政策を見越して横浜港一帯は空襲しなかった。関東大震災で倒壊しなかった建物や震災後に建てられた戦前のビルはそのまま残っている。

グランドホテルが震災で倒壊してニューグランドが建てられ、厚木基地から降り立ったマッカーサーはニューグランドに泊まった。

米軍が接収した本牧には既に住んでいる人達がいて押し除けられてしまった。家人がお世話になって結婚式にも来て下さった同僚の先生が亡くなり葬儀に参列した。独身のまま亡くなった年長の先生は本牧の間門小学校を卒業したといい、幼馴染の同級生が挨拶をした。小学校の時アイドルだったと述べた後有無を言わせず住む所を奪われたことに米軍に悪態をつく挨拶だった。

葬儀の挨拶としてはどうかと思う挨拶だったが、同じ時代を生きてきた故人と通じる思いの発露だったのかもしれない。だが先生は英語の教員になり職業を全うした。

資料館によると米軍は今3万人くらいだが戦後占領政策の時は50万人以上いた、住む所が必要だった。


三溪園は自宅から近いので朝早いバスに乗って早朝観蓮会に参加した。早い時間なので人が少なく蓮の花の撮影に適している。

一斉ではなく日を置いて順番に花が開く

あちこちで蓮の花が開いて目移りする。

見事に咲いている


こんな裏向きの蓮の花があった

時間が経つと蓮の花は徐々に花を閉じてしまう。

花を閉じ始める


珍客がいた


観蓮会を終えて本牧から中華街を通るバスに乗り朝8時に開く謝甜記 貮号店でお粥を食べた。

貝柱粥

本牧に歴史があるように中華街にも歴史がある。開国して横浜港で外国との貿易が増えたが日本人には外国語での意思疎通に問題があった。そこを補ったのが中国人達だった。その中国人相手に飲食店を始めたのが中華街の始まりだ。

中華街に行ったことがある人なら分かると思うが周りの街区と中華街では道が合っていない。周りの街区が港に平行垂直に道があるが中華街の道はほぼ正確に東西南北に道がある。縁起を大事にする彼等が此処に住み着き中心に関帝廟がある。

中国本土には多分関帝廟は無い。文化大革命で迷信とされて関帝廟は破壊された。

中華街の周辺には華僑の素朴な名店がある。その一つ贔屓にしていた奇珍楼が閉店した。甘酸っぱい味が大正時代から続く横浜を代表する人気店だった。世代を繋げる難しさを感じる。

資料館は中国人無しに明治の開国は進まなかった、と語っている。

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