◎わたしがだいじにしていること。


#私の仕事

わたしが社会に出て『働く』ということを始めてから8年。


短大の合格通知が届いてから、父の勧めですぐに働く場所を探した。

人生で初めてアルバイトとして働いた場所は、飲食チェーン店。当時時給750円。決して高くはないけれど、自分が稼いだお金で好きなものを買ったり、ファンクラブに入ったり、コンサートに行ったり、それまで限られたお小遣いの範囲でやりくりしていたものを自由に使えるようになるというのは、両親の目を気にしがちだったわたしにとってとても快適で、母親と家にいなくても良い状況も続くしノンストレスで、働くことのやりがいみたいなものを漠然と感じていた。

でもわたしはうまく働くことができなかった。

電車で1時間ちょっとかかるところに大学があり、サークルに入り、5限まで授業がある日も多かった。短大生活は思った以上に忙しく、あわただしい日々で思うようにシフトに入れなかった。18時からのシフトインに間に合わない日々も続き、19時インにしてもらったりしていたが、どうやらわたしは遅咲きタイプの人間だったようで、役に立てるまで(一人前になるまで)平気で半年以上かかった。よりによってわたしが働き始めたタイミングで同級生が同じ店で働くと言い出し、店長が雇ったもんだから、いろんなことで比べられ屈辱を感じながら働いていたのを覚えている。主軸のパートたち(この店のドン=店長よりも発言力のあるひと)にたくさん嫌味も文句も言われたし、敬語もろくに使えなかったから、パートにも社員にも当時のトレーナーにも失礼だとめちゃくちゃ怒られた(当たり前)。店で数え切れないほど泣いた。でもわたしはなぜか『辞めたい』とは思わなかった。理由はめちゃくちゃ浅はかで、当時フリーでいろんな店舗で働いていた社員(30歳手前くらいだったかな)が好きだったから(のちに他店の店長になりそのタイミングで付き合うことになるも3ヶ月ほどで別れることになる)。今思えば、社員としてあり得ないことばっかりだったし大人としてどうなのよって突っ込みたくなることばかりだったけど、この社員と働く時間はみんな笑顔だった。教え方も上手だった。このひとだけには怒られることはなかったし、同期と比べられることもなかった。笑顔をほめてくれた。後にも先にも、怒られたのは恋愛のことだけだったな。いろんな話を聞いてくれたし、わたしの敏感な気持ちを察することが上手だった。だから別れてからも仲良くできたのはこのひとだけだった。

そんなよくあるバイト先での恋愛は夫まで続く。夫との出会いもこの場所だ。身近なところで恋愛しすぎだろ、と今でも思う。

いろんなことはあったけど、短大卒業するまでなんとか続けれた。DV彼氏に『バイト休め』と言われてもバイトには行った。こいつは用無しだというような感じで他店のヘルプに流されても無断欠席は絶対にしなかったし、決められたシフトを休むことはなかった。どんなに仕事ができないと陰口をたたかれても責任感がないと思われるのが嫌だった。結局、ある程度の仕事まではできても、DV彼氏のこともあって(知らない間にみんな知ってた)みんなから信頼を得ることはできなかったし、最悪な状況での退職だった。一応、胡散臭い保育園に就職は決まっていたけど、試用期間中に会社の書類の不備や泣いた0歳児を2階に放置している光景を目にして、完全に保育園に信用を無くし就職を辞退した。

同年4月下旬、保育園栄養士としてパートで働くことが決まった。次の働きどころは保育園だった。GWの休みが暇だな~と思っていたら、1か月前に辞めたはずの店が人手不足で困っているらしいと聞いて、すぐに店長に会いに行った。

「わたし、GW暇やねん!働けるで!」

…どの口が言うてるねん。最悪の状態で退職したのによくそんなこと言えたな、と思う。でも店長の目はめちゃくちゃ輝いてた。よっぽど人が足りなかったんだろうな。この一言でダブルワークをするフリーターをすることになった。わたしの人生を左右する出来事だった。

7時45分~13時まで保育園で給食を作って、18時~22時まで飲食店。保育園のシフトが休みの時は10時~22時まで飲食店(土日祝含む)。1年間続いた。正直ハードだった、1日休むことがなかった。寝る時間もなかった。たくさん働いてるから徐々に周りの信頼も取り戻していき、飲食店で働くことの楽しさを感じた。ディナータイムは同級生が多かったから、サークルみたいでみんなでコミュニケーションをとって回すのが楽しかった。つい楽しくなっちゃって、うるさい!というクレームをもらってしまうほどみんなが仲良かった(いろんな大人に怒られた)。後輩に仕事を教えることの難しさと成長を見守る楽しさを覚えた。自分が作った料理をおいしそうといってくれる姿がうれしかった。接客の楽しさも知った。たくさんのひとと出会い、たくさんのひとと働き、この仕事の奥深さを感じた。いつしか気づいたらバイトリーダーになっていた。パートの意見、アルバイトの意見、社員の意見、全部を把握しコミュニケーションをとる中心になっていた。ずっとあこがれていた司令塔と言われている立ち位置にたどり着いたときの喜びは今でも鮮明に覚えている。一番怒られていたパートから『この子に任せておいたら大丈夫やから、この子に何でも聞いて』と他店の社員や新人アルバイトの子に言っていたときは久しぶりに泣きそうになった。これはあの時の涙とは違う、うれし涙だ。この店で働くことが自分の存在意義だった。

変わって保育園のパートは全く面白くなかった。誰でもできる仕事しか回ってこなかった。もちろんそれも十分大事な仕事だ、今ではそうわかってはいるけれど、夢にみていたものとかけ離れていて、こんなことがしたくてここに働きにきたわけではない!と納得できなかった。その反抗であれだけ無責任だと思われたくないと思っていたのに、ズル休みもいっぱいしたし、最低限のことしか口にしなかった。その分、飲食店に働きに出た。わたしの居場所はここだと強く思っていた。正社員になれないなら、保育園にいても意味がないと思って、3月末で退職した。飲食店一本でしばらくやっていこうと思った。相変わらず飲食店は復帰してからずっと楽しかった。できるようになることが多くなって、一連の流れを身体に覚えこませることができると無意識に身体は動いてくれるし、みんながわたしを必要としてくれていた。わたしがいない日は不安だと言ってくれた。わたしがどんな立ち位置にいても、客足が途絶えて店内が暇になっていてもこの時間にも時給は発生しているから、掃除でも備品補充でもなんでもいいから店のために、お客様のために、口でなく手を動かせ、それが働くということだ、というような社会人としての大切なことも大人にストレートに伝えられたこともあった。フリーターでも学ぶことはたくさんあった。

そうやって月日が経っていったある日、退職したはずの保育園から『正社員として働かないか』と誘われた。あんなに生意気に反発してかわいくないことをたくさんしたのに経験者だからというそれだけの理由で誘ってくれた。断る理由はなかった。周りは「保育園でがんばってたから、みてくれるひとはいたんやね」って言ってくれたけど、そんなことはないと思う。ちゃらんぽらんに働いていたわたしでも誰でもいいからすぐ働けるひとが欲しかっただけ、経験しているわたしが園にとって好都合だと考えた、それだけだ。とわたしは思っている。そうして2度目の飲食店退職をした。送別会では今までの店長全員来てくれて、とても大きな花束をくれた。みんな就職を喜んでくれた。さみしいとも言ってくれた。めっちゃ泣いた。店のことは当時付き合っていた夫にすべてを託すために、わたしが知っていること全てを教えた。

正社員として働くことが初めてだった、22歳。ここでもたくさん怒られた。さすがに敬語は覚えたけど、それでもおかしいと注意はされた。こどものことは好きだけれど、接し方がわからなくて戸惑うことが多かった。初めて自分が話す食育は緊張して前日寝れなかった。自分の力が試されているようで大人の目が怖かった。二人しかいない常勤なのに、先輩が妊娠した。翌年から調理リーダーを任されることになった。このことを聞いた日、夜遅くのバスロータリーで夫にプレッシャーで死にそう、と不安を吐露してめちゃくちゃに号泣したのを覚えている。それでも時は残酷に過ぎていくもので、わからないことだらけで同年代の相方を持つことになり、その相方のポンコツ具合に1年間振り回された。でもおかげで精神的に強くなれた。何があってもやれることはやると腹をくくれるようになった。それでも、異物混入が続いたり、トラブルは多かった。たぶん、みんなが仕事に慣れてきて中だるみしちゃっていたのだと思う。異物混入の件について時系列等説明しているとき、「こんなに自分は全面的に切り詰めてやっているのに結果がついてこない」という事実に耐えられなくて主任の前で初めて泣いた。

「おきょん先生だけが悪いわけじゃない。調理が気付かなくて提供してしまっていても、保育士が気付ければ良い。こどもの身体の中に入らなければ不幸中の幸いだ。それに、おきょん先生が調理のみんなをまとめようとしているのも言わないだけでみんなわかってる。がんばってるのはみんなわかってるよ。」

この言葉に救われたし、この時初めて責任はひとりのひとに任せてはいけないものなのだと思った。みんなでこどもたちを守っていくんだということにも気付いた。

産休を取っていた先輩は帰ってこなかった。ポンコツ相方は結婚するといって保育園を1年で去った。この時、絶対ってないんだな、人生ってなにがあるか、どうなるかわからないんだなと漠然と思ったし、ひとは裏切るんだとも思った。ひとを過剰に期待しないことも覚えた。

新たに迎えたひとは調理師だった。別に栄養士でなくてもいいのだけれど、夫の就職先が関東になりそうで、この保育園で過ごすのは最後の年になりそうだなと思っていたので、知識面でこの先苦労しそうだと思い、少しずつわたしの知識を渡していった。引継ぎ資料もこの時から時間を見つけて作っていた。新年度が始まってわりと早くにわたしの関東行きが決まった。わたしの報告を聞いた園長が本部に異動の話をやんわりと伝えてくれてた。わたしのこの園でのラストイヤーが始まった。ラストイヤーはめちゃくちゃ楽しかった。みんながわたしを信頼しているのも目に見えてわかったし、仲の良い保育士もできて、初めて同じ職場の人とサシでご飯に行った。初めて職場の愚痴を職場の人に言った。新しく相方になった人にも包み隠さずなんでも話すことができた。ちょっと心が楽になった。この時初めて、「あ、ひとりで抱え込まなくていいんだ、誰かを頼ってもいいんだ」、と思えて肩の荷が少し降りた。仲間が増えたような気がして、少しだけ保育園に向かうことが楽しみだった。ずっと居心地の悪かった調理室がめちゃくちゃ快適だった。ここがわたしの居場所だと思った。

こどもたちが「おきょん先生~!」と駆け寄ってきてくれることも増えた。愛おしさが増した。保護者会で食についての質疑応答を繰り返していくうちに気付いたら敬語が話せるようになっていた。慣れも大事なことだと思ったし、コミュニケーションってめちゃくちゃ大事だと感じた。普段は保護者と話をすることがめったにないので、月1の給食だよりを使って今の自分が伝えたい気持ちをバンバンに詰めた。食育活動をした日には、今日の昼食を展示している狭いスペースや保育室の棚のスペースを借りて写真や文字でその時の様子を伝えるようにした。保護者とこどもたちが過ごす短い残りの1日の中に少しでも給食の話や食育の話があってほしいし、そのきっかけに繋がればいいなと思ってこの新しい取り組みをした。少しでも栄養士の存在を身近に感じてほしかった。わたしもいっしょにこどもたちの成長を見守るお手伝いがしたかった。そしたら、日に日に声をかけてくれる保護者が増えていった。気持ちというのは、込めれば込めるほど伝わるものなんだということに気付いた。今ある全部の力を使って、全力で仕事に全うした。

相方には関東に行くことを伝えていた。早いほうが良いと思った。こころの準備期間も引継ぎ期間も自分の時が短くて駆け足で困ったから、長いに越したことはなかった。そのことが年末の園長との面談をしているときにバレて怒られた。園長はずっと「いまここで辞められたらどうするんだ」と一方的にわたしだけを責めた。ショックだった。一番いろんな仕事の話も人生の話もしてきた信頼していたひとから責められたことに動揺を隠せなかった。園長がわたしの今している仕事全部を1か月未満で引き継げると思っていたことも、わたしの考えを聴こうとしなかったことも。相方には包み隠さずこのことを話した。「わたしはあの時言ってくれなかったらおきょん先生のことを信じられなくなっていたと思う」と言ってくれた。夫の住む家に帰ってシャワーを入っているときに涙が止まらなかった。止めようと思っても止まらなかった。その日から左耳が聞こえなくなった。危なかった。戻れなくなるところだった。耳鼻科で心療内科に行けと言われた。週1で休むようにとの診断書がでた。減っていく有給、2月には有給残が0だった。異動する保育園が決まった。異動する保育園には週1休む診断書の話は伝わっていなかった。3年近く連れ添った園長が信じられなくなった。

卒園式の前日準備で主任が壁面をわたしに任せてくれた。「おきょん先生の好きなようにしていいよ」と言ってくれた。うれしかった。壁面を考えていると窓から「おきょん先生!」と声をかけてくれた保護者がいた。振り向いたら保護者は泣いていた。

「関東に行くなんてさみしいです、おきょん先生にはたくさん助けられました、本当にお世話になりました。この子とも一緒にクッキングしてほしかったです。」

3人のこどものうちの2人がわたしがクッキングを教えた子だった。こんなこと言われると思っていなかったのでお母さんと一緒に泣いた。後で主任に「調理がいなくなることでこんなに泣いている保護者は今までいなかったよ」と言われてさらに涙が出た。見返りなんてものは求めていなかった。ただただ保護者に寄り添いたかった、それだけの気持ちだった。卒園式でまさかこどもたちとではなく、この保護者と写真を撮るなんて思わなかったけど。

この園での最後の勤務の日には、職員からも保護者からもたくさんの贈り物をいただいた。うれしかった。関東でもがんばろうという気持ちでいっぱいだった。でも、やっぱりこどもたちと離れるのはさみしかった。せっかく楽しくなってきたのに、せっかく認められてきたところなのに、やっと軌道に乗ってきたのに。

関東の園に異動した。関東の電車の乗車率は3分後に後の電車が来るにも関わらず、余裕で120%を超えていた。園まで1時間半かかった。異動してから3日後、ベッドから起きれなくなった。『うつ病』と診断され、休職を余儀なくされた。結局、半年後この会社を辞めた。あこがれの保育園栄養士の終わりは想像と違った。あっけなかった。

その後、写真屋さんにフルタイムパートで入社した。店長は言葉数は少ないひとだったが、よく周りのことを見ていてわたしの接客をほめてくれていた(らしい)。それでも精神的な発熱が続き、出社することが難しくなった。なくなく退職し、そこから1年近くは失業手当で生活した。この1年はつらかった。この世の終わりかというくらい落ちていた。そこでSnow Manに出逢った。彼らに出逢ってからは毎日楽しかった。生きたいと思えた。たくさんの推しがわたしを励ましてくれた。

そして年末にわたしが初めて働いた飲食チェーン店が家の近くにあったので、パートで働くことにした。ここで無理ならもう働くことができないと思った。ひとつの賭けみたいなものだった。5年ぶりの接客業ははじめは緊張で手が震えていたけれど、1日経てば感覚が戻った。店長も周りのパートもみんな驚いていた。予想よりも動けた自分が少し誇らしかった。働くということがものすごい高い壁だと思っていたから、少しでも壁を上ることができてそれが自信になった。朝起きて店に行き仕事をする、ということに慣れるまで時間は要するが、やっと慣れてきた。店によってやり方も違うし、多少の戸惑いは今もあるが、調理もやらせてもらえるようになった。飛び級してる。自分の経験が活きてると感じる機会が増えた。人生に無駄なことなんてないと思って生きてはいるけれど、経験は本当に財産だと身をもって感じている。

仕事で承認欲求を満たしがちなわたしにとって、働くということはとても大切なことだ。やりがいを感じ、いただくお給料分の働きをする。そしていただいたお金で推し活をする。それが今のわたしのしあわせ。

本当はもっと働きたいのだけれど、身体を大事にしてほしいという夫の意見を尊重してセーブしてる(かなり迷惑をかけたので)。本当は保育園栄養士だってもう一度したい。


4月から親友二人が保育園栄養士をすることになった。

正直めちゃくちゃうらやましい。たぶんそれは楽しさを知ってるから。緊張感がある職場ではあるけど、その分楽しいこともうれしいこともたくさんある。知らないことを知るのは楽しいし、それを教えるのはもっと楽しい。二人はこどもも好きだし、とてもやさしいから心配はしてない。絶対楽しいから、全部の感情を楽しんで働いてほしいと思う。

わたしもいつか保育園栄養士として働けますように。


わたしは働くのが好きです。

今は、飲食店を楽しみます。

社会人9年目もひとの気持ちを大事にしながら、誰かのためになる仕事を。

働くって楽しい。






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