僕の話を聞いてくれるのですか?

「編集会議で奥村さんの旅行の報告を4頁で掲載することに決まりました」

という主旨のメールをある雑誌の編集部から受け取った時「ええ!?」と吃驚した。声に出ていたかも知れない。打ち合わせで「インタビューとご自身で書かれるのとどちらが良いですか?」と編集者の方が僕に聞いた。

(いいか…ひろみ、こんなことはもう一生起こら無いぞ…分かってるな…?)

僕は即座に「書かせて下さい」と答えた。

文字表現に憧れていた。本を沢山読んで、訳の分からないことばかり考えた。何より文字を書くことが好きでしょうが無かった。実家には思いや出来事を書きつけたノートが大量にある。いつか自分も誰かに見て貰える文章を書いてみたかった。

編集者の方は、心底興味深いという顔で僕の話をふむふむと聞いてくれた。僕は調子に乗って話続けた。

(ぼ、僕なんかの話を聞いてくれるのですか?)

小石を蹴って帰り道を歩いた小学生の頃からあーでもないこーでもないと観念的なことをずっと考えて来た。頭の中で生まれた問いや考えは人間世界のど真ん中をいっているだろうという妙な確信があった。

年を重ねるにつれて「これはどうもそうでも無さそうだぞ…」と気が付き始めた。普通に話して振る舞っているだけでどこに行っても僕はオートマティックに「なんか変な人」に分類された。

今でも勇気を出して自分が本当に思っていることを伝えると「意味が分からない」という反応をされるか「そういうことじゃない…!」という返答がかえってくることが殆どだ。伝え方が悪い可能性は充分あるものの、そもそも共有出来ない種類の観念もあるのかも知れないとも思う。僕も誰かに対して逆も然りの存在なのだろう。

この世界は幾層ものレイヤーを成していて、同じ物理世界に生きていながら違う位相で人々は息をしている。

(この人はもしかして…)

本当に稀なことだけれど、その中で同じ世界線の人に出会うことがある。その瞬間の為に、僕たちは生きているのかも知れない。



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