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⑯中央アジア、モンゴル・ゴビ沙漠

 ボグド村に到着し、出会った村人の庭にテントを張らせて貰い、夜を明かした。私はモンゴル語がほとんど出来ない。身振り手振りでコミュニケーションを取っている。小さな子供が、何かを伝える時の動きがオーバーになる理由が分かった気がした。言葉が足りない分、身体を使って表現を補っていたのだ。モンゴルに来てからずっと「なんか自分子供みたいだな」と思っていたのだ。これは未知の環境であればモンゴルに限った話では無いだろう。旅は人を子供に戻す作用がある。

 ボグド村を出て再び西へ。その四日目の昼。私は孤独に飲み込まれそうになっていた。「うわああああああ」と叫び出し、パニックになる自分がすぐそばにいていつでも顔を出す気配があった。ここまで864km歩いて来た。計算上では沙漠の旅も今日を含めてあと12日で終わりである。しかし私にはこの旅が終わることなど到底信じることが出来なかった。孤独な「今」がただ、目の前に茫洋と永遠に連なっている様にしか思えない。これがゴビ沙漠の、この旅の真髄なのだろう。ひとり、一人、独り。ひとり私がここいる。それをこの私以外誰も知らない。もう全てを投げ出したくなっていた。

 ふと前輪のタイヤを見ると、裂けていた。実は以前、この場所にほんの小さな裂け目が出来ていたのを発見し、その上からチューブに貼るパンク修理用のパッチを貼り、補修していた。今度はそのパッチが破れ、裂け目が大きくなっていたのだ。マジかよ。と思いそのパッチを剥がし、さらに大きなパッチで補修しようと、裂け目の周囲に接着剤を塗る。

「ああああ!」

接着剤を塗ったことにより「ピーッ」という小気味の良い音をたて、さらに裂け目が広がってしまった。非常に地味だが、これはかなり大きな問題だった。チューブならまだしも、まさかタイヤが避けるなどと思いもよらず、私はスペアのタイヤを持って来ていなかった。沙漠を歩いている間、タイヤには常に自転車+荷物の80kg~100kgの負荷がかかっている。こうなってしまったら裂け目がさらに広がり、修復不可能なレベルに達するというのは最悪のシナリオとして、しかし充分有り得る話だ。

タイヤに圧をかけ過ぎない様、私は空気を少しだけ抜いた。しかしこれもまた抜き過ぎると、今度はパンクの原因に繋がってしまう。あとは前タイヤへの負荷を減らす為、荷物を大幅に後ろの荷台に移した。これによって起る弊害は、もう起きてから対処するしかない。私の旅にはどの瞬間を切り取っても、恰好の良い場面など存在しなかった。小さなことで一喜一憂し、遊牧民の人たちに水を恵んで貰い、ナメクジの様に沙漠を這っているだけなのだ。さて、このタイヤでどこまで行けるのだろうか。
 

 遊牧民と接していて面喰らうことがある。本、地図、双眼鏡、自転車など私のものを勝手に触るのだ。これは私の旅したゴビ沙漠全地域で見られた傾向なので、遊牧民全般に言えることなのかも知れない。最初は「おいおい」と思った。しかし彼らはその反面、突然家に現れた異邦人の私に、当たり前の様に水を恵んでくれたり、食事をご馳走してくれたりするのだ。これは一体、何を意味するのだろうか?もしかしたら彼らの「所有」の概念は、私たちのそれと違うのでは無いだろうか。

日本だとある物を自由に使用する権利は、ほぼ100パーセント、その持ち主のものである。その認識を共有しているという前提があるから、私たちは人の物を許可なく触ったり使ったりしない。しかしモンゴルの遊牧民にとって物は「まあ80パーセントくらいはその持ち主の物だけど、20パーセントくらいは別に誰の物でも無いよね」という感覚である様に私は感じた。

日本人の「所有」の概念。モンゴル人の「所有」の概念。そのどちらかが正しいというものではないだろう。しかしそこだけ見ても「世界」に対する捉え方がこれほど違うのだ。その事実は、勝手に自分の物を触る彼らに「おいおい」と思った私の世界を揺さぶった。私は自分の「世界」を疑っていなかったのだ。

そもそも人間は本当の意味で何かを「所有」することなど出来るのだろうか。家族、恋人、ペット、家、車、身体、心、命。すべては移ろっていく。それを「自分のもの」にすることなど出来るのだろうか。「所有」とは、確かなものなど何も無いこの世界で、確かなものを求めた人間の哀しい幻想なのではないだろうか。

 沙漠を歩いている時、人はどんなことを考えるか。私の場合は「水」のこと考えていることが多い。今ある水で、何日間もちそうか?いつまでに次の水を得なければならないか?沙漠の旅において水への意識の比重は、日常生活の比では無かった。独り言も、頻繁に口から漏れ出た。脳は無刺激に耐えられないという話を聞いたことがある。行動中は、単調な景色を黙って歩くことがそのほとんどの時間を占めている。私はあらゆる人を脳内に登場させ、沢山話をし、時に爆笑することもあった。それでは捉えどころの無い様な形而上的な事を全く考えていなかったかと言えば、それはそうでもない。

「全ては人間の思い込みである」という言葉がある。この言葉の論旨は「どうやったって人間は、現実に対する脳の解釈から逃れることが出来ない。世界は自身の脳を通して立ち現れる。だから脳が解釈したもの、つまり思い込んだものが、その人間の観る世界の全てである」といった所だろう。とても納得感のある、真理めいた言葉である。しかしちょっと待って欲しい。「全て」は人間の思い込みである。これが真理であるとしたら「全ては人間の思い込みである」ということも、人間の思い込みだということになる。「全ては」なのだから。しかしおかしい。これでは矛盾してしまう。なぜなら「全ては人間の思い込みである」が人間の思い込みであるとしたら「全ては」が成り立たなくなってしまう。

これをサイコロを使って例えるなら「思い込む」とは、サイコロの3の目だけを見て、それがサイコロの全てであるということに疑いが無い状態のことだ。「全ては人間の思い込みである」という言葉は、それに対して、こう言っているのである。「いやいや、あなたが見えていないだけで、見る角度を変えれば、1の目も2の目も4の目も5の目も6の目もあるんですよ。」と。この時、視座はサイコロを全方位から俯瞰しているはずなのだ。

しかしこの文の中にある「全ては」という言葉で、それすらも思い込み界に吸収され「全ては人間の思い込みである」もただのサイコロの一面となってしまうのだ。では、次の様な文言を付け足してみてはどうだろうか?

【全ては人間の思い込みである】ということ以外、全ては人間の思い込みである。

良かった。これでようやく解決した。…かのように見える。しかし今度は、右記の言葉の二番目の「全ては」に、右記の言葉が丸々該当してしまい、この言葉も、ただの思い込み、ただのサイコロの一面になってしまう。あとはこれを何度続けても同じことである。

全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、 全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、 全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、 全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、 全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みであるということ以外、 全ては人間の思い込みであるということ以外、全ては人間の思い込みである。

この事実は、人間にとって何を意味するのだろうか?恐らく人間は、永遠にサイコロに一面しか見ることが出来ない。しかしそれを自覚することで、人間の認識外の世界の存在を感じることが出来る。つまりこれは、今私たち人間が観ている世界の外にも別の世界が存在していることの証明ではないか。

…と、言うことすらも思い込みなのである。終わりのない永遠の合わせ鏡。その終わりを強引に見ようとしている気分だ。

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