生きる為の言葉はどこへ

 ある不動産会社からの営業メールを開く度「人気の物件はすぐに埋まってしまいます。気になる物件があればすぐに空室確認を!」という文言の「人気の物件はすぐに埋まってしまいます」で脳みそが立ち止まる。

「人気の物件」とは「すぐ埋まってしまう物件」のことである。なのでこの文章は「人気の物件」という言葉の意味を説明しているに過ぎない。しかし「【人気の物件の意味】を受け取る側(ぼく)が理解していること」を発信側が理解しているのは明白である。そこから考えると、この文章は「意味が無い」と言ってもいいと思う。

問題はそれでも僕が「え!そうなんだ、急がなきゃ!」とちょっとでも思っちゃったということだ。文章そのものに意味は無くても、文章にその様な「効果」がある。これも「階層の違う意味」と言えなくも無い。

「年齢なんてただの数字」という言葉もこの文章に似た性格を持っている。普段僕たちはどういった場面で「ただの」という言葉を使っているだろうか。「ただの石ころ」「ただの1日」など、ただの〜に続く言葉に対してそれ以上でも以下でもないことを表す時に使われている様に思う。

人生が有限である以上、年齢は「ただの」数字などでは無い。それは死へのカウントダウンという切実な意味を持つ。ただの数字では無いから年齢というものが生まれたとも言える。少なくとも不老不死が実現するまでは年齢という数字は人間にとって強く意味を持つ。つまり「年齢なんてただの数字」という言葉は意味が無いどころか間違っている。

しかし「年齢なんてただの数字」と堂々と語る人は総じて若く見える。人間には思い込みの力があり、それは物理次元に影響をもたらす(プラシーボ効果など)。つまりこの文章は間違っているが「効果がある」つまり前述の文章と同じ「階層の違う意味」が生じている。

これらのタイプの言葉が世に幅をきかせていることに僕は若干イラついている。

それはなぜだろう?まだはっきりわからない。

ただ大好きな詩や短歌や言葉が、これらの言葉から遠い場所にあることだけは解る。

また考えが深まったらこの場所にそのまま続きを書きたい。

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