伊佐爾波岡(いさにわのおか)と湯築城(ゆづきじょう)

 「伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)」は、「伊予道後温湯碑(いよどうごおんとうひ)」、「伊予温湯碑」、「道後温湯碑」などとも呼ばれ、聖徳太子が飛鳥時代の推古天皇4年(596)に、道後温泉を訪れた際に建てられたと伝わっています。もともとの碑は失われましたが、文献上でその内容を知ることができます。また道後温泉の飛鳥乃湯泉の中庭には復元された石碑があります。聖徳太子がこの碑を建てたのは、中国の温泉賦や温湯碑に倣って設置されたとみられ、碑文には推古天皇時代の古色がみられることが指摘されています。
 伊予湯岡碑がどういう経緯で設置されたのか、またどういうことが書かれているかは『伊予国風土記』に採録されています。ただしこの風土記の原本は現在伝わっていません。風土記逸文という形で、『釈日本紀』巻14または『万葉集註釈』巻3に収録されています。この逸文によると、伊予の湯には天皇などの行幸が5回あり、聖徳太子が来たのは第3回目ということになります。聖徳太子は一人ではなく、高句麗僧の恵慈と葛城臣を伴っています。そして風土記には書かれていませんが、太子一行を出迎えたのは久味国造の久米氏であったと思われます。
 聖徳太子は湯の岡に登り、そのほとりに碑を建てました。その岡は「伊社邇波岡(いさにわのおか)、伊佐邇波岡」と称するようになったといわれています。「伊社邇波岡」に関連して式内社の「伊佐爾波神社」があります。この神社は、湯築城築城に伴って現在の場所に移っており、湯の岡が伊佐邇波岡であるとすると、その場所は湯築城の場所ということになります。
 湯築城(ゆづきじょう)は別名を湯月城ともいい、城跡は現在は道後公園になっています。城と言っても松山城のような天守閣を構えた近世の城ではありませんが、伊予国の守護であった河野通盛(かわのみちもり、?~1364)が建武2年(1335)前後に築き、一族本貫の地である風早郡河野鄕(現松山市河野、河野地区は北条市に属していましたが、2005年に松山市に編入されました)から移り住み、本拠地にしました。天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国攻めに際し、小早川隆景の軍が侵攻し、湯築城の河野氏も約1ヶ月の籠城の後に降伏しました。城は隆景に与えられ、その後の天正15年(1587)に福島正則が城主となりますが、正則は国分山城を居城としたため湯築城は廃城になります。加藤嘉明の松山城築城には湯築城の瓦等の建材が流用されたことが発掘調査で判明しています。明治21年(1888)に県立道後公園として整備されます。昭和63年(1988)城跡の発掘調査が開始されます。平成14年(2002)国の史跡に指定されています。平成18年(2006)には日本100名城(80番)に選ばれました。湯築城跡(道後公園)へのアクセスはJR四国松山駅から市内電車(城南線)の「道後温泉行き」で約20分「道後公園停留場」下車すぐ。この停留場は終点の道後温泉駅の一つ手前で、駅間距離は約300メートルとそれほど離れていません。園内には湯築城資料館があり、月曜休館、開館時間は午前9時から午後5時、入場無料で、ボランティアガイドが配置されています。

 

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