加宜国造と高志深江国造とされる素都乃奈美留命

 加宜国造に任じられた素都乃奈美留命は能登国造と祖先を同じくするという国造本紀の記述は疑問点があると言えます。また一方で「国造本紀」には素都乃奈美留命は高志深江の国造に任じられたという記述があります。すなわち「瑞籬朝御世、道君同祖、素都乃奈美留命定賜国造」となっています。この記述の「瑞籬朝御世」は「崇神天皇の時代」ということです。「磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや、師木水垣宮)」は第10代崇神天皇の皇居。桜井市三輪山の麓にあったとされ、桜井市金屋(かなや)896にある志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)の境内に「崇神天皇磯城瑞籬宮阯」の石碑がたっています。この神社は式内大社ですが近代社格は村社です。社名にある「県(あがた)」は古代ヤマト朝廷の直轄地を意味し、大和国の高市•葛木•十市•志貴•山辺•曽布の6県は特に朝廷とのつながりが深く「六御県(むつのみあがた)」と総称されて各御県には御県神社が鎮座しており、当社はその一つです。現在の祭神は大己貴神ですが、『大和志料』では御県の霊とし、その他に天津饒速日命とする説があります。これは当社の鎮座する志貴御県の首長は磯城県主(しきのあがたぬし、後の志貴連)で饒速日命の後裔とされていることによると思われます。ここにも饒速日命が登場してきます。
 崇神(すじん)天皇は第10代の天皇で、在位は崇神天皇元年から同68年とされています。考古学上実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半頃と推定されます。この少し前にいるのが邪馬台国の卑弥呼です。卑弥呼が生きたのは建寧(けんねい)3年頃から正始(せいし)9年とされています。建寧は後漢の年号で、建寧3年は170年。正始は三国時代魏の年号で、正始9年は248年。魏志倭人伝によると、卑弥呼が248年に亡くなった後、男性が王になりますが、国が乱れたために女性の台与(とよ)を立てたところ国が収まったあります。そうすると崇神天皇は台与の後継者であったかもしれません。現在発掘調査が行われている纒向遺跡との関連で注目されている天皇でもあります。崇神天皇は、祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基礎を整えたとされることから、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれ、実在した可能性があると言われています。水野祐(みずのゆう)氏が「増訂日本古代王朝史論序説」で、崇神天皇、応神天皇、継体天皇を初代とする3王朝の興廃があり、現天皇は継体天皇の末裔と唱えています。水野祐氏(1918~2000)は早稲田大学名誉教授。
 「国造本紀」では能登国造と同祖で仁徳天皇により初代加宜国造に任じられた素都乃奈美留命と、道君と同祖で崇神天皇により初代高志の深江の国造に任じられた素都乃奈美留命の二人の人物がいることになります。二人が国造に任じられている時代が違いますから、二人が同一人物であったことはありえません。素都乃奈美留命が実在したとすると同名の人が二人いたのか、または後世の人が同じ名前を襲名したのかということになります。『福井県史』通史編には「素都乃奈美留命については不明」と書いてあります。素都乃奈美留命とはどういう人物なのか、また国造とはどういう存在だったのかを探ってみたいと思います。そうすることでかつて越前国の一部であった加賀地方に存在したとされる加宜国造についてもその手がかりが得られるかもしれません。また加我国造についてもそれが言えると思います。


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