東紀州の熊野信仰(4)ー紀宝町の貴祢谷社:熊野の神が初めて祀られる

『御垂迹縁起』によると、熊野権現は神倉山から「阿須賀社の北の石淵(いわぶち)の谷に移られた」とあります。その場所にあるのが「貴祢谷社(きねがだにしゃ)」。「たに」ではなく「だに」です。関東地方だと「きねがや」と読まれるかも。南牟婁郡紀宝町鵜殿地区の西のはずれにある丘陵の中腹にあります。地元では、権現谷、矢淵(やぶち)権現、石淵(いわぶち)権現と呼ばれている紀宝町指定史跡です。ここには神社だけでなく、遊歩道沿いに当地を支配した鵜殿氏の城跡や一族の墓もあります。
『御垂迹縁起』によると、熊野権現は豊前(英彦山)、伊予(石鎚山)、淡路(諭鶴羽山)、紀伊(切目)などを遍歴した後、新宮の神倉を経て、阿須賀の北の石淵の谷に「結•玉」と「家津美御子」の二宇の社に祀られました。二社並立の並宮です。また、『熊野年代記』によれば、第3代安寧(あんねい)天皇18年に新宮神倉に垂迹した熊野三所権現を後に貴祢谷に勧請したとあり、孝昭天皇5年に2宇の社殿を建立したとあって、「石淵の谷」を「貴祢谷」としています。その後、ここに祀られていた三神のうち、家津美御子神が第十代崇神天皇の時代に熊野本宮に遷し祀り、第十二代景行天皇の時代に、結•速玉の神が熊野新宮へと遷されたとあります。石淵の谷に二つの社殿で祀られていた三神のうち、まず家津美御子神が本宮に遷り、それから遅れて結神と速玉神が一緒に熊野新宮に遷座されたという経過になります。鵜殿の伝承では、この新宮への遷座の時に当地の住人が諸手船で先導したといい、それに因んで現在も10月16日の速玉大社の御船祭で鵜殿に鎮座する烏止野神社の氏子が諸手船を漕ぎ出し、神幸船を先導する習わしになっています。
清祢谷社に行くには、三重県道35号沿い、日比野生コン会社が目印になります。この横から行きます、矢淵中学校の校庭の中の通路も参道になっていますが、生コン会社からのほうが近いそうです。貴祢谷社の住所はネットでは鵜殿となっていて番地がありません。参考までに生コン会社の住所が鵜殿8、中学校は鵜殿20です。
境内の由緒書です。「紀州熊野 貴祢谷社略記 御祭神 熊野速玉大神 熊野夫須美大神 家津御子大神 御神徳 現世安隠(穏)(家内安全•業務繁栄•願望成就)縁結び•樹木•食物の守護の御神徳高い 御由緒 神代の頃に新宮の神倉山にお降りになった熊野神が、約二五〇〇年前にここにお移りになり、速玉大神、夫須美大神、家津御子大神の三柱の神を二つの社殿に祀っていたが、約二〇〇〇年前に、この祭神の内、家津御子大神が本宮へ移られ、約一九〇〇年前に、熊野神が新宮にお移りになった。この時に鵜殿諸手船(もろとぶね)が神幸船を先導し奉ったことが伝えられている。(熊野権現御垂迹縁起•帝王編年記•扶桑略記) このような御由緒から千数百年このかた私たちの生活の中に精神的なよりどころとして、代々の人々の崇敬を今もなお受けている。境内からは古墳時代末期頃(約一五〇〇年前)から鎌倉時代頃(約七〇〇年前)までの祭祀用の古い土器も出土し、熊野地方とくに鵜殿村にとっては神倉山に次ぐ古い祭祀遺跡で、最も重要な文化財である。 昭和五十四年四月吉日 貴祢谷社保存会 平成十六年四月吉日 奉納 株式会社日比野生コン協力会」。
御神徳として挙げられている現世安穏は速玉大神の、縁結びは夫須美大神の、樹木と食物の守護は家津御子大神のそれぞれの御神徳です。
由緒書に書いてある『御垂迹縁起』以外の史料についてです。『帝王編年記(ていおうへんねんき)』は神代(じんだい)から鎌倉時代後期の後伏見天皇(在位1298~1301)までの年代記。撰者は僧永裕(えいゆう)。『扶桑略記(ふそうりゃっき)は神武天皇から堀河天皇(在位1087~1107)までの漢文編年体の歴史書。著者は阿闍梨皇円(あじゃりこうえん)。仏教関係に重点がおかれ、また彼の弟子に法然がいます。
境内には手水舎、狛犬、拝殿があり、拝殿の東側にはこの地を支配した「鵜殿氏一族の墓」があります。
貴祢谷社は、新宮駅または鵜殿駅から徒歩約20分です。意外に便利です。


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