稲爪神社の現在

 伊予国の越智益躬による鉄人退治の伝承は益躬の出身地である愛媛県今治市の東禅寺や鴨部神社、そして鉄人を退治した場所に創建されたという兵庫県明石市の稲爪神社がその伝承を今に伝えています。今治市と明石市とはかなり離れていますが共通の伝承でつながっているのは面白いです。また稲爪神社は式内社の伊和都比売神社と宇留神社の論社でもあり、この式内社についてもみてきました。そこでここからは、稲爪神社の現在の姿をみていくことにします。
 稲爪神社は明石市大蔵本町6ー10にあり、境外摂社の穂蓼八幡神社(大蔵八幡神社)は同市大蔵八幡町6ー18、熊野皇大神社は同市東人丸町6ー6となっています。3社の住所は異なっていますが、ともに山陽電鉄の沿線にあり、JRよりも山陽電鉄の方が便利です。本社の稲爪神社は山陽電鉄人丸前駅から徒歩5分、特急電車の停車駅である山陽明石駅の東口からだと徒歩15分。穂蓼八幡神社は人丸前駅から徒歩3分。熊野皇大神社は人丸前駅と大蔵谷駅のほぼ中間にありますから、3社とも山陽明石駅からも歩いて行くことができます。人丸前駅も大蔵谷駅も大阪からだと明石駅の手前になります。山陽明石駅へは阪神電車の大阪梅田駅から姫路行きの直通特急が出ています。
 稲爪神社は推古天皇の時代に鉄人を退治した越智益躬が大山祇神を祀って創建。穂蓼八幡神社は益躬の子供が父を祀った越智神社を江戸時代の宝永2年(1705)に明石藩主松平直常が八幡神を合祀して改称し、熊野皇大神社は戦国時代末期に稲爪神社が高山右近の兵火で焼失しため建てられた仮殿が稲爪神社が元の場所に再建されたため、その社殿に熊野三社権現を勧請したものです。寛永14年(1637)のことで、勧請したのは明石藩の2代目藩主の松平光重です。ともに明石藩主で松平姓ですが、時代がくだる直常が光重の直系の子孫ということではありません。
 稲爪神社には鳥居の代わりに随身門があります。2体の随身像が置かれています。この門は享保2年(1717)に建てられた入母屋造平入りの三間一戸の八脚単層門。この門にはスサノオが八岐大蛇を退治した神話をモチーフにした彫刻があり、左甚五郎の作と伝えられています。
 随身門をくぐると参道が真っ直ぐに社殿まで伸びています。参道の途中には注連柱が建ち、その手前には大きな矢が祀られています。越智益躬の鉄人退治をイメージしたものだと思います。注連柱をくぐって石段を上がったところに社殿が南向きに建っています。拝殿の飾り等には「三」の字を元にした神紋「折敷三文字」が施されています。これは大三島にある大山祇神社の神紋であり、当社も大山祇神を祀りますから、それに由来するものですが、大山祇神社は三の文字が「揺れ三文字」ですが、当社は直線になっています。これは河野家の家紋と同じです。
 現在の社殿は昭和52年(1977)の火災により焼失したため、昭和54年(1979)に再建された鉄筋コンクリート造です。
 稲爪神社は近代社格制度では郷社に列しています。また江戸時代には歴代明石藩主から庇護を受け、慶安4年(1651)松平忠国が5石、寛文2年(1662)松平信之が1石、貞享3年(1686)松平直明が5石の社領を寄進しています。

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