賀茂別雷大神の降臨地の1ー神山(こうやま)の由来

 神山は神の鎮座する場所としてふさわしい整った円錐形の山容をしています。こういう姿の山を神奈備山(かんなびやま)と言い信仰の対象となっています。その代表と言えるのは奈良県桜井市の三輪山です。神山は現在聖域として禁足地になっております。周囲は神山国有林となっていますが、磐座のある山頂部分は上賀茂神社の所有地となっているようです。
 神山周辺が国有林になっているのは明治政府による上知令(あげちれい、じょうちれい)によるためです。上知令とは土地の没収命令で、江戸時代にも幕府や藩からも出されています。明治政府は寺社の領地の没収を命じる上知令を明治4年(1871)と明治8年(1875)の2回出して没収して国有地にしました。これは廃藩置県により寺社の土地を保証していた藩による領主権力が消滅したことで寺社領の法的根拠が失くなったこと、また旧大名の所領も国有地としたことと整合性を持たせるため、さらに地租改正により全ての土地に課税する原則を確立したことで寺社の免税特権を破棄することが目的でした。
 神山は、御影山、賀茂山、御生所(みあれ)の山とも呼ばれました。御影山や「みあれの山」は下鴨神社の御蔭山とも共通します。明治33年(1900)の『大日本地名辞書』には「賀茂」の由来について、「名義は水鳥に因むにや、又神をも古人通じて賀茂と曰へる如し」とあり、賀茂は水鳥の鴨に因み、また神に通じる言葉であるということから、賀茂山は神山であるということになると書いています。
 神山は「かみやま」、「かもやま」とも読まれますが、かつては「かみやま」が公称でした。江戸時代に幕府に提出された公式な絵図には「賀茂山」の字が用いられ、「加毛山」の文字も当てられています。山頂には環状に並ぶ石の「垂迹石(すいじゃくいし、降臨石)」があります。この磐座については『賀茂注進雑記(かもちゅうしんざっき、江戸幕府4代将軍徳川家綱の命により上賀茂神社の由来や現状について幕府に報告した文書)』に「或記云神山かも山同訓にして口伝あり、往昔此神降臨まします所岩根あり、是を降臨石といふ。其神山御生所云々」とあり、神山と、かも山は同訓であるということですから、神山は「かもやま」と呼んでいたようです。また御生所とも言うとも書いています。そして口伝えに別雷神が降臨した岩がこの山にあり、降臨石と呼んでいるということがこの文書に書かれています。
 神山は平安時代の承和10年(843)に上賀茂神社の社地になります。また『類聚三代格』によると、元慶8年(884)太政官符により神山での山狩り(狩猟)が禁止されています。ただし、この神山が現在の神山を指すかどうかは不明です。
 『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』は平安時代に編纂された法令集。編者は不明。「類聚」とは、ジャンル別という意味。「三代格」とは、弘仁格、貞観格、延喜格。成立は長保4年(1002)と寛治3年(1089)の間とされます。原本は伝わらず不完全な写本が伝わるのみです。律令制度は律令格式で運用されるのが基本で、格は律令の修正や補足のための法令詔勅。弘仁格は嵯峨天皇が藤原冬嗣に編纂させ、大宝元年(701)から弘仁10年(819)までの格を編纂。一部現存。貞観格は清和天皇が藤原氏宗に編纂させ、弘仁11年(820)から貞観10年(868)までの詔勅官符集。貞観11年完成。現存せず。延喜格は醍醐天皇が藤原時平に編纂させ、貞観11年(869)から延喜7年(907)の間の詔勅官符集。延喜8年(908)施行。現存せず。


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