蓼倉里の三身社(2)ー河合神社末社の三井社

 下鴨神社の摂社河合神社の中門の前(南側)に河合神社末社の三井社があります。この神社は別名を三塚社ともいいます。
 神社社頭の説明板によると、重要文化財申請社殿 三井社[別名三塚社]中社賀茂建角身命 西社伊賀古夜日売命 東社玉依媛売命 古い時代の下鴨神社は、古代山代国愛宕、葛野郷を領有していた。この里には、下鴨神社の分霊社が祀られていた。この社は、鴨社蓼倉郷の総(祖)社としてまつられていた神社である。摂社三井神社「風土記」山城国逸文「鴨社」の条の「蓼倉里三身社」とは別の社である。とあります。 
 上記の文章から、この神社は『山城国風土記』逸文にある三身社とは別の神社であり、下鴨神社が領有していた蓼倉郷の総社として祀られていたということになります。ということは現在の鎮座地に遷ってきたということです。その時期については書かれていません。
 この神社は河合神社の末社ということで、社殿も下鴨神社摂社の三井神社のように三殿が独立した建物ではなく、一棟の建物が三つに区切られています。中央(中社)には建角身命、向かって右(東社)には玉依媛命、左(西社)に伊賀古夜日売命が祀られています。祀られている祭神は三井神社と同じですが、配列が中央の建角身命は変わりませんが、伊賀古夜媛と玉依媛とは東西の位置が逆になっています。
 この三井社は蓼倉郷で総(祖)社として祀られていたとあります。「祖」とありますから賀茂氏が祖先を祀っていたということです。その祖先は建角身命、その妻の伊賀古夜媛、そして娘玉依媛の三神です。そしてこの三神は「風土記逸文」にある「三身社」とされる摂社の三井神社も同じです。ところが下鴨神社は正式な名前が賀茂御祖神社と言い、「御祖」とは賀茂氏の祖先ということを意味しますが、下鴨神社の本社には伊賀古夜媛が祀られていません。建角身命と伊賀古夜媛の間には玉依媛と玉依彦の二人の子供がいます。そして玉依彦が賀茂氏の始祖ということですから、賀茂氏の祖先を祀るということからすれば、玉依彦の両親を祀る摂社の三井神社や河合神社末社の三井社の祭神構成のほうが合理的です。下鴨神社の本社の祭神から伊賀古夜媛が除かれているのは謎だと言えます。
 この三井社の別名が三塚社とあります。「みつづかしゃ」だと思いますが、どうしてこの神社が三塚社と呼ばれるのかは分かりません。一般的には「塚」は墳墓を指すことが多いですが、それと関係があるのでしょうか。
 蓼倉郷(たでくらごう)は山城国愛宕郡にあった12郷の一つで、『和名類聚抄』には蓼倉郷(多手久良)とあります。現在でも左京区下鴨蓼倉町として地名が残っています。下鴨蓼倉町は下鴨神社の北東にあり、東は高野川に面しています。この高野川には歩行者専用の蓼倉橋(たでくらばし)があります。賀茂川と高野川の合流点の上流1.14kmにあり、西詰は下鴨泉川町、東詰は高野西開町(たかのにしびらきちょう)•高野清水町(たかのしみずちょう)。また京都バスの「蓼倉橋」バス停があり、大原や四条河原町行きなどのバスが発着します。



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