乙訓坐大雷神社の論社ー向日神社に合祀された火雷神社の3

六人部家(むとべけ)についてネットでは、古くは下ノ社の宮司をしていた。承久の変(1221)に火雷神社の神主の六人部氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫は丹波に隠棲した。曾孫の氏貫の代の建治元年(1275)旧里に帰ったが、社殿の頽廃はなはだしく向神社の神主•葛野義益の建議によって、火雷神社の御樋代(ご神体)を向日神社に納めた。その後六人部家は上ノ社の宮司をも務めるようになった。六人部是香(むとべよしか 1798ー1864)は、幕末の向日神社の神職であり、国学者だった。弟子に、坂本龍馬、副島種臣(そえじまたねおみ)、中岡慎太郎などを輩出している。とあります。この記事を読むと、もともと火雷神社の宮司であった六人部氏が承久の変で後鳥羽上皇方に味方して敗れ、所領があった丹波の六人部荘に逃れ、やがて許されて戻ったところ神社は荒廃していたので御神体を向神社に納めて合祀し、神社も向日神社と称するようになり、やがて六人部氏が向日神社の宮司になったという経緯が分かります。
六人部氏が逃れた六人部荘は、現在の京都府福知山市にあります。現在、六人部の地名はありませんが、舞鶴若狭自動車道に六人部パーキングエリアがあります。上り線側は福知山市大内(おおち)、下り線側は宮(みや)です。舞鶴に向かうと福知山インターの手前になります。
また、この記事には「上ノ社」「下ノ社」という言葉があります。「上ノ社」は向神社で「下ノ社」は火雷神社を指します。この「下ノ社」の御神体を向日神社に遷したことが原因となり、文明16年(1884)井ノ内に再興された角宮神社から御神体の返還請求が向日神社に行われ、揉めましたが結局明治16年(1883)に角宮神社に返還されています。こういう経緯から「下ノ社」を角宮神社とする誤解が生じたようです。
角宮神社の旧社地は「宮山」です。向日神社と火雷神社はウィキペディアによると、元々は同じ向日山に鎮座する「向神社」(上ノ社)、「火雷神社」(下ノ社)という別の神社であった。とあります。ウィキペディアには、上下の関係については書いていませんが、神名帳に書かれた社格では火雷神社の方が名神大社と格が上ですから、社格による上下関係ではありません。鎮座した場所の位置関係、向神社の方が火雷神社よりも山の上部にあったからと思われます。
また角宮神社の創祀は継体天皇の勅命によると伝えられていますが、火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山背国に遷った際に、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝えられており、養老2年(718)の社殿新築にあたり玉依姫命と神武天皇を合祀したとされています。ただ『記紀』には神武天皇が橿原から山背国に遷ったという記述はありません。おそらくは神武天皇ではなく、大和から山背に移動した建角身命が神武天皇と混同されたのではないでしょうか。そうすると向日神社の現在の祭神に建角身命が祀られていない理由も理解できます。
向神社は元は五塚原古墳の上に祀られており、それが養老2年(718)に元稲荷古墳の南にある現在の場所に遷ったとされ、その時に火雷神社の社殿が新築されたということですから、向神社は火雷神社の鎮座している場所に遷ったことになります。向神社が遷座した理由は分かりません。

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