湯神社の祭神と歴史の補足

 湯神社が鎮座する冠山(かんむりやま)は標高57.4m。道後温泉本館の南隣に位置し、一角に湯神社や菓子の神の田道間守(たじまもり)を祀る「中嶋(なかしま)神社」があります。山頂は本館や椿の湯の利用者向けの市営有料駐車場になっており、北側から車道が通じています。南側は湯神社への表口で石の階段があります。その下の道は伊佐爾波神社の参道になっています。2019年に遊歩道に足湯も備えた休憩スペース「空の散歩道」がリニューアルオープンしました。冠山は標高が低いですから、山というよりも丘という感じで、道後温泉事務所などの建物もあります。
 湯神社は景行天皇が皇后を伴って当地に行幸した際に創建されたとありますが、その皇后の八坂入媛は、崇神天皇の皇子の八坂入彦命の娘。古事記では「八尺之入日売命」と書かれています。生没年不詳。景行天皇52年7月7日に皇后になり、景行天皇との間に成務天皇を始め七男六女を産んでいます。景行天皇の皇子といえば日本武尊が有名ですが、日本武尊の母は景行天皇の皇后の「播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)」で、孝霊天皇の皇子の若建吉備津日子命(わかたけきびつひこ)の娘。稲日大郎姫が景行天皇52年5月4日亡くなっていますから、それから間もなく皇后になっています。 
 景行天皇が行幸した際に湯神社が創建された場所として大禅寺(だいぜんじ)の前となっています。もちろん湯神社が創建された景行天皇の時代にはまだ仏教が日本には伝わっていませんから、寺があったわけではありません。ただ湯神社は後に冠山に移りますから、以前の鎮座地を説明するために大禅寺の前ということにしたのでしょう。ところが大禅寺も現在はありません。大禅寺の跡地には「ホテル椿館」が建っています。住所は松山市道後鷺谷町(どうごさぎだにちょう)5ー32。この寺がどういう理由で廃寺になったのかはわかりませんが、おそらく明治維新の神仏分離▪︎廃仏毀釈によるものと思われます。大禅寺は「禅」とあるように禅宗の黄檗宗の寺院でした。黄檗宗は江戸時代の初めに隠元によってもたらされます。隠元は日本の文禄元年(1592)中国の福建省に生まれ、承応3年(1654)に来日します。黄檗宗の大本山萬福寺(京都府宇治市)は万治4年(1661)の創建です。隠元の亡くなったのは寛文13年(1673)です。したがって道後温泉に大禅寺が創建されたのは17世紀後半ということになります。大禅寺には簑毛桜(みのげざくら)と呼ばれる桜がありました。花が咲くとちょうど白鷺が繁殖期に首や背中に生える簑毛と言われる飾り羽に似ていることから、この名前が付けられました。ここにも白鷺が登場します。
 大永年間の地震ですが、大永4年(1524)に九州の霧島山が噴火して山岳崩壊が起きています。このことを指しているのかどうかはよくわかりません。
 河野通直(かわのみちなお)はすでに説明しています。 
 宝永4年の地震ですが、1907年(宝永4年)10月4日、東海道沖から南海道沖を震源域として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したとされ、記録に残る日本最大級の地震とされています。地震の規模はM8.4ー8.9、最大震度7、津波は太平洋沿岸を襲い、最大の津波の高さは25.7m。死者4900人、負傷者21000人。この年は亥年であったことから、亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれます。

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