源平合戦と鈴木氏(2)ー重家と亀井重清

亀井重清は史実では衣川の館で義経や兄の重家と共に亡くなったといわれる鈴木重家の弟ですが、『紀伊続風土記』の「藤白浦旧家 地士鈴木三郎」によれば、重清は佐々木秀義の六男となっています。佐々木秀義の妻は源為義の娘で、丹鶴姫とは姉妹になります。近江国蒲生郡佐々木荘を領地として母方の伯母は奥州藤原氏の秀衡(一説には基衡とも)に嫁いでいて藤原氏とは縁戚になります。保元の乱では後白河天皇方の源義朝に味方して勝利しますが、平治の乱では義朝が敗れたため、秀衡を頼って奥州に逃れる途中の相模国で渋谷重国に引き留められてその庇護を受けて五男の義清が生まれていますが、重清については記録がありません。重清は六郎と名乗りますから、秀義の息子か、あるいは鈴木重倫の息子であるか、どちらにしても六番目の子供ということになります。秀義の四人の息子は後に頼朝の挙兵の支援をしています。まわりくどくなりましたが、『紀伊続風土記』の記述は、鈴木氏の伝承に基づくと思われ、重清を奥州藤原氏と縁戚関係にある佐々木秀義の息子としたことで鈴木氏も奥州藤原氏とは縁戚関係にあるということを主張する意図があるとみられます。重清が鈴木ではなく亀井を名乗った経緯がよく分かりません。ご存知の方がおられたら教えてください。亀井は紀伊国牟婁郡の地名だそうですがそれがどこは分かりません。亀井重清の子孫は戦国時代に出雲の尼子氏に仕え、江戸時代には島根県の津和野藩主となり明治維新の功績で伯爵になります。
亀井重清は義経四天王の一人とされ、弓の名手。『源平盛衰記』では一の谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場しています。生まれ年は不明ですが、亡くなったのは義経らと一緒の文治5年(1189)です。
義経四天王とは、「歌舞伎美人(かぶきびと)」のサイトによると、歌舞伎では亀井六郎、片岡八郎、伊勢三郎、駿河次郎が登場することが多く、『勧進帳』では伊勢三郎に代わって常陸坊海尊になります。伊勢三郎は伊勢神官を祖先に持つ山樵(やまかつ、やまがつ 山のきこり)、片岡八郎は下総国で海運を営みながら頼朝への造反に連座して追われた一族の一人、駿河次郎は駿河の国の猟師。海尊は伝説上の人物。とあります。『勧進帳』の主役は武蔵坊弁慶ですが、弁慶は熊野別当堪増の息子とされますから、義経の主な家来に熊野出身者が三人いることになりす。なお弁慶は架空の人物とする説もあり、ウィキペディアでは父の名前については書かれていません。『勧進帳』をご覧になる時は、義経や弁慶以外の登場人物のうちに二人の鈴木氏ゆかりの人物がいることを思い出してください。『勧進帳』は義経以下全員が山伏姿で登場します。熊野三山は修験道のメッカであったことも背景になっています。
鈴木重次(しげつぐ)は重家の次男で、重家は義経と行動をともにしますが、重次は紀伊国に残って、鈴木氏の後を継ぎます。重次は承久の乱(1221年)では朝廷方として参加します。乱の首謀者である後鳥羽上皇は熱心な熊野信者ですから、その恩に応えたのでしょう。こうしてみると鈴木氏は武運に恵まれていたとはいえないようです。
重次の子孫が藤白鈴木氏の後を継いでいきます。ただ各地に重家の子孫といわれる鈴木氏がいます。重家は平泉では亡くならずに生き延びたということになります。これについては次章以下で紹介します。
なお鈴木重次を名乗った人物として江戸時代初期に水戸藩士となった別名鈴木孫一がいます。藤白鈴木氏の流れを汲む雑賀鈴木氏の出身です。雑賀鈴木氏ではその棟梁や有力者が代々孫一(孫市)を名乗り、その中でも有名なのは、司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市(しりくらえまごいち)』の主人公として登場する戦国時代の鉄砲集団雑賀党を率いた雑賀孫市(さいかまごいち 鈴木孫一)が知られています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?