御蔭神社と小野氏ー小野毛人の墓誌が語るもの

このブログの「八咫烏の荒御魂を祀る御蔭神社その1」で紹介しています、御蔭神社境内に立てられた由緒書きの中にある「この地方は古代から山背北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には数々の遺跡が存在する」という説明ですが、これを読んでもなんのことかよく分かりません。それについて、ネットの「下鴨神社平安時代の御生神事〈御蔭山の磐座祭祀〉」に、上賀茂神社宮司だった座田守氏(さいだもりうじ)さんの「御蔭祭について」というタイトルの論文が紹介されています(「神道史研究」第8巻5号p279~
280、昭和35年臨川書店)。その内容は以下の通りです。「出雲高野神社の境内古墳より小野毛人の墓誌が発掘され、それには天武天皇六年(678)丁丑年十二月上旬に葬ったと記してゐる。かくの如く、この地方は古くは小野氏の有力な根拠地であって、なほその当時は小野氏の主力がこの地方に盤居してゐたと見なければならぬ。されば賀茂氏がこの地方に勢力を扶植したのは、それ以後と見るのが妥当であろう。出雲郷の名称も小野氏の主流が近江に移動した後に付せられたと考へる。」。この論文の著者である座田守氏さんの経歴はよく分かりませんが、座田氏は上賀茂神社の祠官であり、代々名前の最後に「氏」と付けているようです。
この論文では、御蔭神社境内の由緒書きにある「山背北部豪族」は「小野氏」であり、「近隣には数々の遺跡が存在する」とある遺跡の一つとして「出雲高野神社境内古墳から小野氏の一族の小野毛人の墓誌が発掘された」としています。また「船つなぎ岩」もその遺跡の一つとして数えることができます。つまり賀茂氏が小野氏に替わって「船つなぎ岩」での祭祀を行うようになったということをこの論文や由緒書きは言っているということになります。
それではこの論文の内容を補足します。
小野毛人(おののえみし)は遣隋使として知られる小野妹子(いもこ)の子供です。この墓誌は出雲高野(いずもたかの)神社のある崇道(すどう)神社の裏山にある墓の石室から江戸時代の慶長18年(1613)に発見され、現在は国宝に指定されて京都国立博物館に収められています。金銅製の短冊形で48の文字を刻んだ後に鍍金(めっき)しています。表には、「云飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝仕太政官兼刑部大卿位大錦上」。裏には、「小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」。とあります。墓誌の表には、毛人が天武天皇に仕えた役職や位階を書き、裏には埋葬した年月が書かれています。この墓誌は毛人の埋葬時ではなく、奈良時代に作られたものです。また墓誌では毛人の官位を「大錦上」と記していますが、毛人の息子の没伝によると「小錦中」(26階級のうちの11位)とあり、毛人の没後に「大錦上」の位が授けられた可能性があり、それによって墓誌が作られて収められたとも考えられます。現在毛人の墓には「小野毛人朝臣之墓」の石標が立っています。
なお、論文では毛人の亡くなった天武天皇六年を678年としていますが、正しくは677年です。毛人の生まれた年は不明です。また論文では毛人の墓の場所を「出雲高野神社の境内」としていますが、出雲高野神社と同じ崇道神社の境内社に小野神社があります。こちらの方が小野氏ゆかりの神社であり、墓の場所も小野神社の近くですから、本来ならば「小野神社の境内」とした方がふさわしいと思います。ただ小野神社が再建されたのが昭和46年(1971)ですから、この論文が書かれた頃には小野神社が存在していないという事情があります。
小野神社については次章で説明します。

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