賀茂別雷大神の誕生(2)ー山城国風土記逸文その3

建角身命は木津川を下り、葛野河(桂川)と賀茂河との合流地点に来て、賀茂川を「みはるかし」ます。ここにある賀茂川は現在の鴨川のことと思われます。ここで注目したいのは「みはるかす」という表現です。大阪市にあるあべのハルカスの「ハルカス」は「みはるかす」ことから付けられた名前です。「みはるかす」には高い所から広い範囲を見るというイメージがあります。鳥が空から眺めるような。建角身命は八咫烏と言われて、神武の道案内をします。まさにみはるかして進路が分かったということになります。また建角身命が木津川から桂川と鴨川との合流地点まで来たのもこの能力があったからだと思います。そういう能力を持っていたのではないでしょうか。
さて、桂川と鴨川との合流地点というと、京都市伏見区の羽束師(はづかし)•久我(こが)になります。羽束師には羽束師鴨川町があります。また久我には久我神社があります。
久我(こが)神社は京都市伏見区久我森の宮町(こがもりのみやちょう)8ー1にあります。神社の案内板によると「当社は八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦三年(784)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である。久何神社とも号する。別雷命、建角身命、玉依比売命の三柱を御祭神とし賀茂両社と同体であり、古代鴨森大明神と号す」とあります。
この案内板によると、祭神は父の建角身命を始め、娘と孫の三代で、こういうケースは珍しいそうです。三柱とも賀茂社の祭神ですから賀茂両社(上賀茂神社、下鴨神社)と同体ということになります。この神社は桓武天皇の長岡京遷都の際に艮角(うしとらのすみ、鬼門の方角)の守護神として賀茂の神を祀ったということでしょう。『延喜式神名帳』の山城国乙訓郡久何(こかの)神社に比定されています。かつてこの付近一帯には広大な森が広がり「久我の森(杜)」と呼ばれ、それで森大明神と呼ばれていたそうです。その名残で地名が森の宮町となっています。この神社が賀茂の神を祀っているのは、『山城国風土記逸文』にあるように建角身命が木津川を下って桂川を遡り鴨川との合流地点に至ったという伝承に基づいています。
この神社の祭神について、興我萬代継神(こかよろずよつぐのかみ)ではないかという説があります。この神は、『日本三代実録』に貞観年間(859~877)に神階を授けられたことが記載されています。ただこの神が当社に祀られていたというはっきりした史料はありません。
久我神社にはかつて葵祭があったそうです。地元の旧家に伝わる地誌『老諺集(ろうげんしゅう)』に「葵、四月上之巳日、葵祭と申し伝える也。上古、御旅所に出御あり。七日の間なり(中略)御旅所の事 森の西方三丁境内、田畑に成る。而して字を夫婦木と謂う」とあります。御旅所は夫婦木(みょうとぎ)と言ったようで田畑になってしまったということです。なお『老諺集』はいつ頃書かれたかは不明ですが、そこに上古と書いていますから、この神社の葵祭はかなり昔のことのようです。
なお、京都市北区にも建角身命を祀る久我神社があります。こちらは「くが」と読みます。混同しそうで気をつけないといけないです。この神社については次章で紹介します。

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