伊佐爾波神社の霊験と松平定長
松平定長公が将軍家から弓の競射を命じられたときの話です。定長公は弓の名手として誉れが高く、射損じては面目がつぶれるとあって、湯月八幡宮に「石清水八幡宮と同じ建物をお建て致しますので金的を射させてください。」と祈願されました。ある夜、夢枕に八幡様がお立ちになって「私の指図通りにしなさい。必ず射止めるであろう。」とお告げになりました。当日になって、諸大名が並ぶ中、定長公は弓に矢をつがえ、きりりと引き絞って八幡様を祈念しました。すると金の鳩が目の前で飛び立ち、これこそ八幡様のお指図と矢を放つと見事金的に命中しました。定長公は面目をほどこし、祈願された通り飛騨の匠を招いて八幡造りの社殿を建立しました。
松平定長(さだなが)は、伊予松山藩第3代目藩主。官位は従四位下▪︎隠岐守、侍従。寛永17年(1640)2代藩主松平定頼(さだより)の次男に生まれます。寛文2年(1662)、長男の定盛(さだもり)が病弱を理由に廃嫡され、ほぼ同時期の寛文2年1月22日に定頼が藩邸の三田中屋敷で落馬したことから危篤となり急死します。それにより定長は松山藩15万石を継承します。定長は寛文3年(1663)三津浜に魚市場を開くなど民政に尽くします。そしてこの年に位が従五位下から従四位下に昇ります。さらに、道後湯月宮(現▪︎伊佐爾波神社)や味酒明神(現▪︎阿沼美神社)などを再興するなど祭祀施設の興隆にも尽くします。定長は連歌にも長じ、多くの名歌を残しています。また伊佐爾波神社の伝承にあるように弓術の名手であり、寛文4年(1664)には4代将軍徳川家綱の前で弓射を披露しています。それから10年後の延宝2年(1674)正月21日に江戸において大病にかかり、今治藩主松平定時(さだとき)の嫡男の鍋之助(のちの定直、さだなお)を養嗣に迎え、同年2月12日に三田中屋敷で亡くなりました。享年35。定長の松山入りは、父の定頼と同じくわずか3回でした。そういうことから、伊佐爾波神社竣工の遷座祭に家老を代参させたのでしょう。
伊佐爾波神社には松平定長が奉納した太刀が所蔵されています。国行の銘があり、鎌倉時代の作。長さ77.7cm。寛文5年(1665)8月に奉納されています。昭和3年に国の重要文化財に指定されています。
定長は寛文2年に藩主となりますが、その年に将軍家綱から競射の命令が下ります。定長が弓の名手であることから、家綱もその腕前を見たいということだと思われます。相続して間がないので2年間の猶予が与えられますが、定長にとってはすごいプレッシャーです。苦しい時の神頼みで八幡神を祀る伊佐爾波神社(道後湯月宮)に祈ります。願いが叶ったら立派な社殿を建てますということですから、八幡神も真剣になります。当日、目の前に八幡神のお使いの金の鳩が飛び立ち、その鳩を追うようにして矢を放ったら見事に的に当たったということです。それで約束通りに立派な社殿を建てたのが現在の社殿ということになります。この社殿は当社の霊験を証明するものと言えます。そして新しい社殿が完成した時に太刀を奉納したということで、定長の喜びが伝わってきます。また、愛媛県神社庁によると定長は社領として200石寄進しています。