伊可古夜日女の伝承ー亀岡市の宮川神社の2と丹波市氷上の神野神社の1

前章の宮川神社の由緒を要約すると、まず欽明天皇の時代に宇佐八幡宮より誉田別命(八幡神)を勧請し、天武天皇の時代に神尾山の山上に伊賀古夜姫を鎮祭し、この神社が式内社の丹波国桑田郡神野(かみの、かんの)神社であり、神尾山の山上の神野神社と山腹の八幡宮の二つの神社が存在していましたが、戦国時代末期に明智光秀と波多野秀治が戦った時に両社ともに焼失し、その後良くないことが続いたので、江戸時代の初めに神尾山の麓の現在地に再建して、二神を合祀して神社の名前を宮川神社と改称し現在に至っているということです。かつて誉田別命(ホンダワケノミコト、八幡神)が祀られていた社地を八幡平(はちまんだいら)と呼んでいるそうです。祭神が下鴨神社祭神の玉依姫命の母であるところから氏子の青年たちが葵祭の行粧列に参加しているということです。
宮川神社には本殿の後ろに大きな磐座があり、この磐座があることでこの場所に再建されたとも考えられます。神社の横を谷水が流れ厳かで神を祀るのにふさわしい雰囲気のある神社だそうです。宮川神社の境内中央に拝殿があり、拝殿の後方階段上に本殿を収めた覆屋があり、その後ろに磐座があります。磐座は崩れ落ちそうな感じだそうです。本殿の左手に林に続く小道があり、その中に貴船大神、玉依姫命を祀る小祠があります。
神尾山の山上には神尾山金輪寺(かみおさんきんりんじ)という本山修験宗(本山は京都の聖護院)の寺院があります。この寺は神野神社の神宮寺でした。桓武天皇の延暦二年(783)の創建で、明恵上人の高弟の高信の中興。本尊は薬師如来。
宮川神社を起点に東に向かうと、宮川神社→丹波国一宮出雲大神宮→愛宕山→上賀茂神社→御蔭神社→比叡山→日吉大社がほぼ直線状に位置しているそうです。
宮川神社へのアクセスですが、JR西日本の嵯峨野線「千代川(ちよかわ)」駅より京阪京都交通広野行きで、「中野」下車7分、「宮川」下車8分です。詳しくは京阪京都交通にお尋ねください。嵯峨野線は山陰本線の京都から園部間の愛称で、千代川駅は亀岡市にあり、亀岡駅から園部方面に向かい2つ目の駅です。
兵庫県丹波市には旧氷上町(ひかみちょうと)と旧市島町(いちじまちょう)に伊可古夜日女の伝承を伝える神社があります。
まず、氷上町御油(ごゆ)字マガリ40ー2にある神野神社から。神野の読みは、かつては「かむの」、現在は「かんの」です。祭神は別雷命。『特選神名帳』や『神祇志料』には、神野伊加許也姫神(かんのいかこやひめがみ)を祭神としています。神社の社頭掲示板には次のように書かれています。
円通寺境内の池のあるあたりに神野神社は鎮座していたという。歌人として•また「光源氏」のモデルとしても高名な河原の左大臣こと「源融」は西暦884年頃からこの地「山田村」に滞在、890年頃にこの池の辺りに「嵯峨天皇」と「賀茂別雷命」を祭神に、「賀茂大明神」を建立、その時の賀詞の一節からこの地を「御油」と命名したと言われます。この神社は、約500年間総社として地域の人々の信仰を集めますが、円通寺の創建に際し北田井の「賀茂神社」北御油の「賀茂野神社」(現神野神社)に分祀されます。そそり立つ大杉に御神木と言われ唯一名残を留めています。またこの地で「伊可古夜媛が古代の丹波(但馬、丹後を含む)」を治めたとする学説もあり、この場所に賀茂大明神が祭られた訳が伺われます。伊可古夜媛と結婚した「賀茂建角身」(神武の東征• 熊野上陸で先導をつとめた「ヤタガラス」その人と言われる)は、今の京都の賀茂を拓き「賀茂の鼎主」となり、「賀茂御祖神社」(下鴨神社)に祭られます。一方の「上賀茂神社」祭神賀茂別雷命は二人の子供に当たります。以上が社頭掲示板の内容です。この掲示板では別雷命は二人の子供となっていますが実際は建角身命にとっては孫になります。
次章に続けます。


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