矢田は物部氏ゆかりの場所

矢田の地名は仁徳天皇の皇后(後妻)の矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女)にちなみます。矢田皇女は仁徳天皇の父の応神天皇の皇女で、仁徳には異母妹にあたり、仁徳と皇位を譲り合った結果身を引くために自殺した莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の同母妹で、亡くなる時に皇女を皇后とするように遺言します。仁徳には既に磐之媛命(イワノヒメ)という皇后がおり、なかなか遺言を果たせなかったのですが、皇后が料理を盛るために木の葉の御綱柏を採りに熊野に出かけた間に皇女を宮中に入れてしまいます。それを知ったイワノヒメは怒って御綱柏を捨て、仁徳のもとには戻らず山城国の筒城宮(つつきのみや)で亡くなります。それで仁徳は矢田皇女を皇后にします。後妻ということになりますがやっと遺言が実行できました。ただ皇女には子供ができなかったため、その名を残すために名代(なしろ)として矢田部(やたべ)を創設し、大別連公が氏造になり、矢田部連公の姓を賜ったと『旧事本紀』天孫本紀にあり、さらに彼はニギハヤヒの8世の孫、物部造遠祖武諸隅の孫だとあります。武諸隅は『日本書紀』には崇神天皇60年7月に「矢田部連造遠祖武諸隅」と出ています。ナガスネヒコが滅ぼされた後、この地域はニギハヤヒあるいはウマシマヂの子孫が支配したということでしょう。その上で、仁徳天皇が皇后に迎えた矢田皇女の名代を組織したときに、大別連公にその集団を管理させたということになります。名代というのは、古墳時代の部民制(べみんせい)における集団の一つで、一定の役割をもってヤマト王権に奉仕することを義務づけられた大王直属の集団です。
谷田部氏(やたべうじ)については、『新撰姓氏録』に五系統が挙げられています。①左京神別 矢田部連 伊香我色乎命の後 ②山城国神別 矢田部 鴨建津身命の後 ③大和国神別 谷田部 ニギハヤヒの7世孫 大新河命の後 ④摂津国神別 谷田部造 伊香我色雄命の後 ⑤河内国神別 谷田部首 ニギハヤヒの6世孫 伊香我色雄命の後。ニギハヤヒは原文は漢字表記ですが、便宜的にカタカナで表示しています。これからも明らかなように矢田部氏は②を除いて全て物部氏の系統です。そのうちの3氏の始祖はイカガシコオです。物部氏の系譜においてイカガシコオが重要な存在であることが分かります。なお②の鴨建津身命(カモタケツノミ)は八咫烏に関連してあらためて説明します。
『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』は弘仁6年(815)に嵯峨天皇の命によって編纂された古代氏族の名鑑。京及び畿内の1182氏を「皇別(こうべつ、神武天皇以降に臣籍降下したもの)」、「神別(しんべつ、天津神、国津神の子孫。天孫、天神、地祇に細分され、天孫は109、天神は265、地祇は30の氏族が掲載されています)」、「諸蕃(しょばん、渡来系の氏族)」に分類して、それぞれの氏名(うじな)の由来と分岐の様子などを記述しています。なお「新撰」とありますが、当初計画された氏族に関する記録が未完成に終わったため、新規に編纂されたという意味で先行する姓氏録があったわけではありません。
久志玉比古神社には境外摂社があり、そこに注目すべき伝承があります。それを紹介します。

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