賀茂別雷大神の誕生(3)ー久我神社と伊可古夜日女の伝承ー亀岡市の宮川神社の1

久我(くが)神社は京都市北区紫竹下竹殿町(しちくしもたけどのちょう)47にある上賀茂神社の境外摂社(第八摂社)。祭神は建角身命。ただし上賀茂神社文書によれば、近世には国常立尊とする説もあります。
創建年代は不詳ですが、賀茂県主氏が大和から山城に移住するに際して祀った社の一つとみられています。
『山城国風土記逸文』には、建角身命が移動した場所として3ヵ所挙げられています。①山代の岡田の賀茂、②葛野川と賀茂河とが会う所、③久我国の北の山基。このそれぞれの場所に賀茂氏の氏神が祀られています。①には木津川市加茂町の岡田鴨神社、②には京都市伏見区の久我神社、そして③は当社付近ということになります。また当社が現在地に祀られた理由として、建角身命の墳墓がこの付近にあったためとする伝承があります。これについては確かなことは分かりません。宇陀市の八咫烏神社の近くにも八咫烏の墓と言われる丸塚古墳があります。当社は『延喜式神名帳』の愛宕郡の久我神社に比定されています。賀茂社の『嘉元年中行事』において末社としての記載があることから平安時代後期頃から賀茂社の末社になったと推測されています。鎌倉時代以降は「氏神社」と称しており、中世になると賀茂氏の氏神としての性格は薄れ、郷民の社としての性格が強くなります。近世以降は主に「氏神社」や「大宮」と呼ばれていましたが、明治5年(1872)に「久我神社」と改めて現在に至っています。貞享3年(1686)の『雍州府志』では、境内を「大宮の森」と書いています。現在の敷地内にはその面影を伝えるケヤキの巨木があります。春秋の例祭では「牽馬の儀(ひきうまのぎ)」として、上賀茂神社の神馬が本殿を3周する神事が行われます。
瀬見の小川と丹塗矢はあらためて説明します。
建角身命は居所が定まりましたので、妻を娶ることにします。お相手は丹波国神野(かみの)の神伊可古夜日女(カムイコカヤヒメ)です。この伊可古夜日女を祀る神野神社の場所が、京都府亀岡市と兵庫県丹波市にあります。京都府と兵庫県ですがどちらも丹波国です。
まず亀岡市の神社から。神社の名前は宮川(みやがわ)神社。場所は亀岡市宮前町(みやざきちょう)宮川(みやがわ)神尾山(かんのおさん)2番地。湯の花温泉の西になります。延喜式内社の神野神社に比定されています。
神社の案内板にある由緒書きです。「宮川神社(延喜式内社)宮前町宮川 祭神に伊賀古夜姫命、誉田別命の二神を祀る。当社の創建は文武天皇の大宝年間(七○一~七○八)山上に伊賀古夜姫命を鎮めたのが起源とされ古くは神野山と称し延喜式にいう神野神社に比定される。また、誉田別命(八幡大神)は欽明天皇三十二年(五七一)に宇佐八幡宮より神野山山中に遷し祀られたと伝えられ今に社地を八幡平という。天正五年(一五七七)明智光秀と波多野秀治の合戦の際両社とも焼失し、その後落雷不作が続いたので正保四年(一六四七)山麓の現在地に社殿を移し二神をあわせ祀り名称も宮川神社と改めたと伝えられる。伊賀古夜姫命は京都下賀茂神社の祭神玉依姫命の母神であり、下賀茂神社と関係が深く葵祭の行列には氏子青年が奉仕に参加している。」となっています。


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