向日明神の伝承その2ー金蔵寺と小塩山

 金蔵寺は隆豊によって小塩山に創建されました。所在地の山の名前は小塩山(おしおやま)。金蔵寺の山号は西岩倉山(にしいわくらざん)。
 隆豊は伝えによると、俗姓は竪部氏。父は薩摩大守藤原重命(しげのぶ)。奈良県の多武峰(とうのみね)で藤原鎌足の子の定恵(じょうえ)のもとで出家し行善(ぎょうぜん)と名乗り、元興寺(がんごうじ)の道昭(どうしょう)について仏法を収め、高麗に留学。帰国後は求菩提山で修行し、金蔵寺の縁起にあるように金蔵寺を創建、朝廷から禅師(ぜんじ)の尊号を贈られ隆豊禅師と称しました。晩年に一体の不動明王の石像を刻みこの地で亡くなったそうです。
 隆豊が修行した求菩提山(くぼてさん)は福岡県豊前市求菩提と同県築上郡(ちくじょうぐん)築上町(ちくじょうちょう)寒田(さわだ)に属する標高728mの山。かつては英彦山(ひこさん)、犬ヶ岳(いぬがたけ)とともに修験道の山で、京都の聖護院の配下でした。明治時代の神仏分離で国玉神社となりました。
 小塩山は標高642m。東西の二つの峰があり、西峰山頂には淳和(じゅんな)天皇の御陵があります。淳和天皇は桓武天皇の第7皇子で、第53代の天皇(在位823ー833)。遺詔により火葬された後、小塩山で散骨され、また陵墓を造ることも禁じたため長らく小石で築かれた塚がありましたが、幕末に御陵として整備されました。陵墓の名称は大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)。次に書いています大歳神社の所在地の灰方町(はいがたちょう)はこの散骨の時に遺灰が飛んで行った方向に由来します。なお歴代天皇で散骨されたのは淳和天皇だけです。
 金蔵寺の縁起にある、向日明神が放った3本の矢は大歳神社、角宮神社、向日神社に落ちて向日明神は向日神社にとどまったとあります。この中の大歳(おおとし)神社は延喜式の山城国乙訓郡の名神大社月次新嘗の大歳神社であると思われます。場所は西京区灰方町575。祭神は大歳大神。歳神は向日神社の祭神であり、境内社には向神社があります。ただしこの神社には火雷神の伝承はありません。この神社の鎮座地はかつて「柏(かしわ)の森」と呼ばれ、柏の木が繁茂していたようです。神社の創建は元正天皇の養老二年と伝えられ、金蔵寺の創建と向日神社の遷座と時を同じくします。相殿に式内社の石作(いしづくり)神社が合祀されています。石作神社は代々石棺などを作っていた豪族がその祖神を祀ったものとされています。垂仁天皇の皇后日葉酢姫(ひばすひめ)が亡くなった時に石棺を献上したことから石作大連公の姓を賜りました。石作は金蔵寺の場所の地名です。大歳神社は善峰川の北側に南東向きの社殿があります。
 小塩山の名前の由来は、この地の本来の名前の小入(おじお)が、後に在原業平が大阪湾から運ばせた海水で塩を焼いたという伝承を生み、それで小塩になったと言われます。古今和歌集には在原業平が詠んだ「大原やをしほの山もけふこそは神世のことも思ひいづらめ」の歌が収められています。 
 金蔵寺は『今昔物語集』巻17「西岩倉山仙久知普賢化身語第卅九」に仙久が住んだ寺として登場します。法華経の持経者である仙久は常に誦経して修行していました。多くの人が仙久は普賢菩薩の化身であるとの夢を見て訪ねて来るようになります。仙久が亡くなる時には念仏を唱え心静かに往生したということです。
 金蔵寺へは、JR向日町駅または阪急電車東向日駅から阪急バス65系統で約25分終点「南春日町」下車後徒歩60~70分。あるいは阪急電車桂駅東口から京阪京都交通バス「大原野長峰」行きで終点の「長峰」下車後徒歩50~60分。

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