牛鼻神社ー神社の由緒(2)

前章で紹介したサイトから、牛鼻神社とはどういう神社か考えてみます。それぞれが原典となる資料名を書いていませんから、サイト上に記載された内容を基にします。なお、祭神については「牛鼻神社ー祭神」で考察します。
まず神社の創建時期は五千年前、あるいは崇神天皇65年の勧請とあります。崇神天皇65年は『熊野道中記』によりますと「『古今皇代図』には本宮が初めて建つ」とあり、本宮が創建された年とされます。また「勧請」とありますから、どこかから移したということにもとれますが、昔から現在地に鎮座ともあります。五千年前と崇神天皇65年ではずいぶん年代の隔たりがあります。それについては「祭神」の章で考えてみます。
そして注目されるのは、速玉大社に分社したとありますから、牛鼻神社のほうが元宮になるということです。御船祭は石淵谷から現在の大社の場所に遷座した様子を再現したと言います。その御船祭の神幸船を曳航する鵜殿の諸手船の乗員が、貴祢谷社、阿須賀神社、牛鼻神社の順に参拝しています(御船祭ー諸手船)から、牛鼻神社が速玉大社の元宮だとする当社の伝承が反映されているのかもしれません。
「牛」にまつわる由来が書かれています。それは地名に「うし」があることから、「牛鼻」と呼ばれ、そこから連想した話です。同様に神武天皇の伝承も当地には神武伝承が多く伝わっていますからそれに結びつけたものでしょう。この場所が「うし」と呼ばれた理由は「み熊野ねっと」に書かれています。
この神社の由緒で重要なのは景行天皇と千翁命(ちおきなのみこと)の話です。『日本記』という書名がありますが、『日本書紀』の景行天皇紀にはそういう話はありません。『日本記』は書紀ではないのかもしれません。まず三輪崎(みわさき)荒坂山(あらさかやま)と秋津野(あきつの)という具体的な地名が書かれています。三輪崎荒坂は新宮市三輪崎地区で、神武天皇が熊野に上陸した場所とされ、明治百年を記念して創建された「熊野荒坂津神社」があります。秋津野は佐野王子のある新宮市佐野の字名です。電車だと新宮→三輪崎→紀伊佐野となります。どちらも速玉大社から那智に行く間にあります。牛鼻神社からは南西にかなり離れています。ここで千翁命が食糧不足で困っていた天皇に米を献上し、喜んだ天皇は千翁命に穂積の姓を与え、命の三人の子が榎本、鈴木、宇井の熊野三党の始祖となるとされています。この伝承、在地の豪族が天皇の危機を救うということでは、神武天皇と高倉下の伝承が想起されます。実際に景行天皇ではなく、神武天皇が主人公だとする伝承もあります。そこでポイントとなるのは、千翁命です。この人はどういう人物なのでしょうか。「饒速日命(ニギハヤヒ)五世の孫」とあります。ニギハヤヒは日本古代史や神話に関心のある方にはお馴染みですね。ニギハヤヒは神武天皇の大和入りを生駒で阻止して天皇に熊野へ迂回をさせた張本人「長髄彦(ナガスネヒコ)」が仕えていた人物。神武天皇と同じく天下りした存在で、物部氏の祖と言われ、また穂積氏の祖だともいいます。牛鼻神社にはニギハヤヒを祀る境外末社の「宇田(うだ)神社」があります。さらに『熊野道中記』には、「牛鼻神祠、千翁命を祭ると伝えている」とあります。熊野三党の始祖伝承は阿須賀神社にもあります。それは阿須賀大行事に書いています。牛鼻神社にも阿須賀神社のどちらにもあるということに興味があります。さらに「熊野地方一帯の祖神(おやがみ)を祀るところ也」ともあります。牛鼻神社にはどのような神が祀られているのでしょうか?
『熊野道中記』ですが、「み熊野ねっと」によると、『南紀徳川史』に収録されており、鳥居源之丞(とりいげんのじょう)が、享保7年(1722)の藩主の熊野参詣の予備記録として書いたものだそうです。


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