向日明神の伝承その3ー木枯神社の2木枯森

 木枯神社の旧鎮座地の社叢は「木枯杜(こがらしのもり)」と呼ばれていたと言います。この森は、清少納言の『枕草子』の「森は…」の中で言及されています。また『後撰和歌集』などでも歌枕として和歌に詠まれています。この歌枕としての「木枯の森」は、山城国の木枯神社に比定する説と、駿河国の木枯神社(静岡県静岡市)に比定する説とがあります。なお『能因歌枕』では、山城国、駿河国の両方が歌枕として採用されて掲載されています。
 『枕草子』の記事です。「森は、大荒木(おおあらき)の森。しのびの森。子恋(こごひ)の森。木枯(こがらし)の森。信太(しのだ)の森。生田(いくた)の森。うつきの森。菊田(きくだ)の森。岩瀬(いはせ)の森。立聞(たちきき)の森。石田(いはだ)の森。かうだての森と言ふが、耳留(みみとだ)まるこそ、怪しみけれ。森など、言ふべくも、有らず。唯、一木(ひとき)有るを、何に、付けたるぞ。こひの森。木幡(こはた)の森」とあります。清少納言は一本の木しかないのを森と呼んでいるのは怪しいと書いています。
 『後撰和歌集(ごせんわかしゅう)』は村上天皇の下命により編纂された古今和歌集に次ぐ二番目の勅撰和歌集。950年代の成立。20巻、1425首が収められています。木枯森の歌は「こがらしのもりのした草風はやみ人のなげきはおひそにけり」(読み人知らず)です。
 駿河国の木枯森(木枯ノ森)は、静岡市葵区羽鳥(はとり)3丁目、安倍川との合流点に近い藁科川(わらしながわ)の真ん中、羽鳥と牧ヶ谷(まきがや)を結ぶ牧ヶ谷橋付近の中洲にある長さ100m、高さ10mほどの小さな丘で、周囲から見るとこんもりした森に見えます。静岡県の名勝に指定されていますが、周囲を川に囲まれており橋などの設備もないので容易には訪問できません。近くを古代の東海道が通っており景勝地として歌枕となりました。
 『安倍郡誌』には木枯しの森について次のような話が収められています。舟山(ふなやま)と木枯(こがら)しの森。むかし、藁科川の上流大川日向(ひなた)に、長者の娘がおりました。大そう器量よしで、両親も大へんにかわいがっていました。ところが、夜な夜な美しい若者が、娘のところへ忍んでくるようになりました。実はこの若者、村の神社の大杉の木霊(もくれい)でした。長者は、大へんに怒(いか)って、大杉を切り倒し、丸木舟にして娘ともども藁科川に流してしまいました。母親は、驚いて、たらいに乗ってあとを追いました。その時、強風が起こり、山をふるわせ、雨を呼びました。丸木舟は、ひとつの島に近づいたとみるや、沈んでしまいました。母親の乗ったたらいも、娘に追いつけず、ひとつ手前の島の近くでとうとう沈んでしまいました。以来、娘の沈んだ島を「舟山」母親の沈んだ島を「焦(こ)がれしの森」と呼び、いつしか木枯しの森となりました。とあります。この話にある「舟山」は安倍川と藁科川の合流点にあり、舟山神社がありました。この場所では安倍川が増水すると参拝できないため、明治22年(1889)に安倍川右岸の神明宮に合祀されました。
 また木枯森にも木枯神社がありましたが、度重なる災害や参拝の難しさから、羽鳥の八幡神社に合祀されました。毎年9月頃には、羽鳥の八幡神社からご神体を神輿に乗せて木枯森に渡御する祭りが行われます。このご神体は木枯神社本地仏と言い、阿弥陀如来立像です。
 木枯森に行くには、静岡駅から静鉄バスの南藁科線または牧ヶ谷線で牧ヶ谷下車徒歩3分です。
 『安倍郡誌』は、『静岡県精髄安倍郡誌』と言い、大正三年(1914)までの郡内(現在の静岡市)の住民の生活のあらゆる分野を記録したもの。
 『能因歌枕(のういんうたまくら)』は能因による歌学書で後世の歌学書にも影響を与えました。成立年は不詳。能因は俗名を橘永愷(ながやす)と言い、988年の生まれで没年は不明。小倉百人一首の「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は立田の川の錦なりけり」の作者です。


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