国造とはー「国造本紀」の国造系譜と「記紀」の国造系譜の比較

 研究報告の内容の紹介を続けます。「国造本紀」の系譜の多くは記紀のそれと符号しているということ。このことからは、「国造本紀」の系譜が記紀をはじめとする古文献に基づいて作られたということも考えられるが、「国造本紀」の系譜にいう始祖が直接記紀のに結びつけられていない例がかなり存在することや、それが記紀の始祖と一致する例でも、そこには記紀にみえない独自の記載があることなどからすると、すでに指摘されているとおり、国造関係の原資料が存在し、記紀の系譜も「国造本紀」の記載も、ともにその原資料に基づいている、と考えた方がよいであろう。また「国造本紀」の伝文に氏の名が記される場合は、物部連•膳臣•阿閉臣などというように、必ず天武朝の改賜姓以前の表記がとられているのであり、この点も前述のように考える際の論拠になろう。ただし一方において、記紀と異なる系譜を伝える例のあることは、「国造本紀」の系譜の史料性を疑わせることにもなるであろうし、また記紀の系譜よりも始祖をさかのぼらせている例のあることは、それがより新しい伝えであることを考えさせるものでもあろう。したがってこれらの例については具体的に検討しておく必要がある。
 この文章では、国造の系譜が「国造本紀」と記紀で一致しているものもあり、また「国造本紀」独自の系譜を載せているものがあり、「国造本紀」や記紀のもとになった原資料の存在が考えられるということから、個々の国造について「国造本紀」と記紀の系譜に関する記載を検討する必要があるということで、いくつかの国造が取り上げられています。その一つに能等国造について検討されていますので紹介します。なお上記文中の、物部連は「もののべのむらじ」、膳臣は「かしわでのおみ」、阿閉臣は「あべのおみ」と読みます。 
 能等国造 「国造本紀」には「志賀高穴穂朝御世、活目帝皇子大入来命孫彦狭嶋命。定賜国造」とあるが、ここに活目帝(垂仁天皇)の皇子とされる大入来命は、『古事記』(崇神天皇段)には大入杵命につくり、崇神天皇の皇子とされ、「大入杵命者、能登臣之祖也。」とみえている。能等国造の氏姓は能登臣と考えてよいであろから、この場合は、「国造本紀」も『古事記』も大入来命(大入杵命)を祖とすることでは一致しており、異なるのは、それを垂仁天皇の皇子とするか崇神天皇の皇子とするかという点である。また「国造本紀」には大入来命の孫として彦狭嶋命の名をあげているが、この彦狭嶋命は、「日本書紀」(景行天皇55年2月壬辰条、同56年8月条)には彦狭嶋王とあり、崇神天皇の皇子の豊城入彦命の孫とされている。また「国造本紀」の上毛野国造条にも彦狭嶋命の名がみえ、やはり「豊城入彦命孫彦狭嶋命」とある。したがって、この能等国造の系譜は、『古事記』とも『日本書紀』とも矛盾し、「国造本紀」の中でも上毛野国造条と矛盾することになる。しかしこの場合も、それだからといって、「国造本紀」の能等国造氏自身が称していた異伝とみる余地も残されているのである。


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