八咫烏を祀る矢宮神社ー由緒の2

神社境内の由緒書きにある「ご創建は推古天皇の御代と伝えられ」について、ウィキペディアの説明では、「口伝によると第33代推古天皇の治世に、賀茂建津之身命の後裔と伝えられ、現在も神職を務める矢田部氏の上祖が、賀茂建津之身命が神武東征の途中に陣を構え、賊将名草戸畔を討ったという地を選び定めて祭祀を始めたのが創建の由緒」とあります。
推古天皇の治世は西暦593~628年。矢田部(やたべ)氏が代々神職を世襲して、その先祖が創建したということですが、矢田部氏については、当ブログの「矢田は物部氏ゆかりの場所」で説明しています。繰り返しになりますが、『新撰姓氏録』には、矢田部(谷田部)氏には5系統があり、そのうちの4つは物部氏の系統ですが、1つだけ鴨建津身命の後裔が山城国にいるとなっています。したがって矢宮神社を創建したのは、山城国に住む矢田部氏の出身ということになります。また神社の場所は名草戸畔を討った場所とありますが、名草戸畔は現在の海南市で神武軍に討たれています。名草戸畔の本拠地は紀伊国一宮の日前宮付近であったと言われ、神武は名草戸畔を攻めるために矢宮神社のある場所に陣を構えたということになります。
矢宮神社の由緒で大きく取り上げられているのは、祭神の霊験として語られる雑賀衆と織田信長軍との戦いと、織田信長との和議が成立した事で、石山本願寺(現在の大阪城に所在)を退去した本願寺の教如(きょうにょ)上人に関わる出来事です。前者の主人公は雑賀孫市ですが、本姓は鈴木氏で、当ブログても取り上げています藤白鈴木氏の分家です。当主は代々鈴木や雑賀と称し、孫一や孫市を名乗っているため、この話に登場する孫市の実像もはっきりしません。司馬遼太郎さんに孫市を主人公にした「尻啖え孫市」という小説があります。雑賀衆が信長軍を破ったことを喜んで踊ったという「雑賀踊り」は、和歌浦にある紀州東照宮の「和歌祭」の渡御行列で踊られます。この踊りは寛永12年(1635)に徳川家光の上覧を得ています。なおこの踊りの起源については、天正10年(1582)に鷺森(さぎのもり)別院に立てこもっていた門徒と雑賀衆が本能寺の変の知らせで信長軍が退却したことを祝った際に踊ったのが始まりという伝承もあります。いずれにしても信長絡みの話になります。 
後者の「鷹の巣洞窟」は、雑賀崎灯台の下にあります。県が天然記念物に指定しています。海に突き出た断崖絶壁が鷹の巣と呼ばれ、高さ50mで、紀州青石と呼ばれる結晶片岩が海岸に露出しています。鷹がこのような絶壁の岩穴に巣を作ることから名付けられました。鷹の巣の下に「上人の窟」と呼ばれる洞窟があり、天正8年(1580)に石山本願寺から紀州の鷺ノ森に逃れた教如上人が和歌浦から舟で逃れ、この洞窟に潜んで難を免れたと伝えられています。
矢宮神社は南海和歌山市駅またはJR和歌山駅より和歌山バスの和歌浦口方面行きに乗車して「秋葉山(あきばさん)」停留所下車すぐです。秋葉山は南西側に秋葉大権現堂があることからの名前ですが、別名を御坊山、弥勒山といい、戦国時代に本願寺教団の弥勒寺があり、鷺ノ森御坊(現在の浄土真宗本願寺派鷺森別院)ができるまでは紀伊国における本願寺教団の中心寺院でした。雑賀孫市はここを決戦場にして山全体に城を築いて信長軍と激戦を繰り広げました。山頂には、石山本願寺を退去したあと鷺森別院に身を寄せた顕如上人の碑があります。弥勒寺は現存しません。鷺森別院は、鷺ノ森御坊や雑賀御坊ともいい、和歌山市鷺ノ森1番地にあり、南海和歌山市駅から徒歩約5分。
文明8年(1476)の創建。

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