八咫烏神社(2)ーさまざまな由緒の記事

八咫烏神社については、神社の公式サイトに書かれている由緒の記述の他にさまざまな記事があります。それを見ていくとこの神社と祭神の八咫烏についての真相に迫れるのではないかと思います。
まず神社境内にある由緒書きです。「皇祖神武天皇熊野より賊軍を御東征の御砌り、道なき峻険の山をかき分け宮居を定めんと、たたなめて伊那佐の山にお登りされんとした。この土地の豪族で偉丈夫の武角身命が全身真黒い衣をまとい高い木より木へと飛び移って宮居の方に天皇をご先導申し上げた。その姿が恰も八尺もあるような大烏の様であったので、天皇はその勲功を賞でて八咫烏の称号をお与えになった。慶雲二年九月天武天皇が武角身命を祭神として、当社を指呼の間にある伊那佐山麓のここ高塚(鷹塚)に八咫烏神社を創建して祭る。三足の烏を当社の絵様とし、また山城国下加茂神社の旧陣営(神官の誤り?)は鴨の県主で祭神武角身命の苗裔である。従って葵を以て両社の神紋とされた由緒はここにある」とあります。
また同じく境内に設置された『榛原町(合併により宇陀市)』社頭掲示板では、「八咫烏神社(建角身命)は『続日本紀』に慶雲2年(705年)9月、八咫烏の社を大倭国宇太郡に置いて祭らせたことがみえ、これが当社の創祀となっています。江戸時代文政年間(1818~1831)には、これまで石神殿であったものが春日造りの社殿となりました。その後、紀元二千六百年を記念して社域を拡張•整備し、現在に至っています。『古事記』『日本書紀』によると、神武天皇が熊野から大和へ入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(武角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。八咫烏伝承はもともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主が有力となってからは、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようです。」とあります。
平成7年(1995)の神社本庁による『全国神社祭祀祭礼総合調査』では、「由緒 当社は、宇陀郡榛原町高塚に鎮座しており、建角身命をお祀りしている。創祀は慶雲3年(奈良時代)に大和の宇陀郡に祀り始められたとされ、東征のときの先導となった大伴氏や、八咫烏の子孫と言われる賀茂氏等の氏族がその祭祀のため大いに努力したとみることができ、京都地方の鴨県主は八咫烏の子孫であると伝えられている」と書いています。
『神社辞典』では、「奈良県宇陀郡榛原町高塚。旧県社。祭神、建角身命。通俗オトゴロス社。創立は不詳であるが文武天皇慶雲2年(705)と伝えられる。『延喜式』に鍬靱を寄せられ、『神武紀』に八咫烏について記され、『新撰姓氏録』にも神武天皇東征のとき道を失った折、鴨建津見命が大烏となって導いたとある。京都下賀茂神社の神官は県主の子孫というので、古来当社に一度は参拝するか奉幣使を送ったが、明治初年頃貧村のゆえ、これを中絶した。例祭10月21日」。
『神社霰録』には、「八咫烏神社鍬靱 八咫烏は夜多加良須と訓べし ○祭神賀茂建角身命 ○鷹塚村に在す、(大和志、同名所図会)、姓氏録、(山城國神別)鴨懸主、賀茂懸主同祖、神日本磐余彦天皇、(諡神武)欲向中洲之時、山下険絶、跋渉失路、於是神魂命孫、鴨建津之身命、化如大烏、翔飛奉導、遂達中洲、時天皇喜其有功、特厚褒賞、八咫烏之號、従此始也、鎮座続日本紀、慶雲2年9月丙戌、置八咫烏社于大倭国宇陀郡祭之。」となっています。
これらの資料についてその内容を検討していきます

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