賀茂別雷大神の降臨地の2ー江戸時代の地誌にある神山

 神山は現在は上賀茂神社の北北西2kmにあり、京都産業大学の裏手にある山とされていますが、前章にも書いていますが、平安時代の史料にある神山がこの山を指すかどうかは分からないということです。
 江戸時代の地誌にはどのように書かれているでしょうか。
 まず『扶桑京華志(ふそうきょうかし)』では、賀茂山の別称を「神山」、又は「鴨ノ羽山」、初名を「別雷山」としています。この「別雷山」の「雷」は「土」と訓ずとありますから、「わけつちやま」と呼んだということになります。さらに初名とありますから、神山は最初は「別雷山」と言っていたということになります。別雷神が降臨したことに由来する名前です。「鴨ノ羽」については、前章に書いた『大日本地名辞書』が水鳥の名前に因むとある記事の根拠だと思われます。『扶桑京華志』は松野元敬(まつのげんけい)著で寛文5年(1665)の刊行。山城国全域について、山岳、原野、森林、川沢、宮室、郷邑、寺院、古跡、草木などを掲げ、各寺の方位、起源、伝説等を漢文で書いています。なお京都五山の送り火のうち金閣寺近くの左大文字についてこの書が初見とされています。臨川書店出版の新修京都叢書第22巻に収められています。「扶桑」は中国の伝説で、東方の果てにあるとされる巨木で、その木の生えている土地は扶桑国と呼ばれ、後世中国における日本の異称となり、またそれを受けて日本でも自国を扶桑国と呼びました。
 江戸時代中期の享保年間に編纂された『日本輿地通志畿内部』(いわゆる『五畿内志』)では、賀茂山の別称を「分土山、又は神山」としています。「分土山」(別雷山、わけつちやま)は松尾大社の御神体山である松尾山の旧称であり、賀茂と松尾の関係を感じさせます。賀茂社と松尾社の関係については別雷神の誕生にまつわる丹塗矢の伝承に松尾社の祭神が登場します。これについてはあらためて紹介します。さらに『五畿内志』では賀茂山の所在地を「上賀茂の東」としています。現在の神山は神社の北北西ですから、この賀茂山は現在の神山ではありません。上賀茂神社の東には神宮寺山(片岡山)があり、さらにその東には上賀茂神社境外摂社の大田神社の裏山があります。この山は古くは大田山や中山と呼ばれており、現在は「大田の小径」として整備されています。そしてここからさらに東には「京銀ふれあいの森」や京大演習林に続いています。この山域は古くは「本山」と呼んでいました。前述の『大日本地名辞書』には、「賀茂山は上賀茂社の東に聳ゆ、社地より高きこと六十米突、俗に本山(ホンザン)と曰ふ。歌に神山(かみやま)と詠めり」とあり、さらに「片山御子神社 片山は賀茂山の古名にて日本紀略小右記に片岡に作る。蓋苗神にして下鴨小社の社なり」とあります。地名辞書では、賀茂山は賀茂社の東にあり、片山(片岡)は賀茂山の古名であり、和歌に詠まれている神山(かみやま)は現在の「神山(こうやま)」ではなく、上賀茂の東にある片岡山か、あるいは広く本山(ほんざん)の山域を指していることになります。また「社地より高きこと六十米」とありますが、上賀茂神社の標高が85から90mであり、上賀茂神社の東にある神宮寺山(片岡山)は170m、その東にある大田山161m。もし本山の山域が本来の賀茂山=和歌に見える神山(かみやま)だとすると、別雷神の降臨地を「かみやま」ではなく「こうやま」と呼んで区別しているということになります。
 五畿内志や地名辞書の説に従うと、別雷神の降臨地は神社の北にある現在の神山ではなく、神社の東にある片山御子神社の裏山の神宮寺山か大田神社の裏山の大田山ということになります。






 


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