押部谷住吉神社の旧社地に鎮座する可美真手命神社

 可美真手命神社(うましまじのみことじんじゃ)は押部谷住吉神社の旧社地である「元住吉山(もとすみよしやま)」に鎮座しています。住所は神戸市西区押部谷町細田(さいだ)1323。かつては播磨國明石郡細田村でした。押部谷住吉神社は明石川を挟んだ対岸に位置します。祭神の可美真手命は饒速日命の息子で物部氏の祖とされ、神武天皇の大和入りの敵であったとされる長髄彦との関連で当ブログでも登場しています。物部氏の祖とあることから、式内社の播磨國明石郡物部神社の論社になっています。宇留神社の論社ではありませんが、「宇留」は「布留」の転訛ではないかとの説があり、「布留」については当ブログでも書いていますように饒速日命と関係の深い言葉です。宇留が布留だったのかどうは明らかではありませんが、播磨國明石郡には物部氏の一族が住んでいて、祖先の可美真手命を祀っていたことになります。
 可美真手命神社の社伝によれば、成務天皇十九年三月九日に創建されたとなっています。そこに奈良時代の天平勝宝六年(754)に、摂津國の住吉大社の社家の津守連が住吉神社を建てたということになります。津守連がどうしてこの場所を選んで住吉の神を祀ったのかは押部谷住吉神社の社伝に書かれていませんからその経緯は不明ですが、すでに可美真手命が祀られている場所にわざわざ神社を建てたというのは、そこにははっきりとした理由があったと思われます。押部谷住吉神社は戦国時代末期の永禄2年(1559)に神託により現在地に移ります。奈良時代から約800年間、元住吉山には押部谷住吉神社と可美真手命神社が併存していたことになります。どういう形で祀られていたかは分かりませんが、後から来た住吉神は可美真手命にとっては迷惑な存在だったでしょうから、出て行ってくれてホッとしたことでしょう。
 可美真手命神社はバス停「細田住吉前」に丘の上へ登る坂道があり、ここを登ると初めは舗装されていますがしばらく行くとやや荒れた道になります。この道の左側(北側)に南向きに鳥居があり、鳥居をくぐった正面に朱塗りの本殿が南向きに建っています。当社には拝殿は無く、また手水舎や灯籠などもありません。元住吉山(宮山)は東西に長く低い丘が明石川に向かって突き出しています。神社の案内文によると、御神徳は、石をも切り裂く劒の御神徳で「腫れ物」や「できもの」を治して下さる神様。体内の腫瘍、例えばがん等の治療のため多くの方々が参拝している神社です。御由緒 当神社は成務天皇十九年(一四九年)三月九日に創建されたと伝えられる一八〇〇年以上の歴史を持つ神社です。延喜式神名帳にその名の見える「物部神社」であります。天平勝宝六年(七五四年)九月十三日に摂津国住吉大社の社家「津守連(つもりのむらじ)」が楯神▪︎鉾神と共に住吉大神を勧請したと伝える押部谷住吉神社の最初の鎮座地であり現社地を「宮山(みやま)」また「元住吉山」と称します。昭和三年直良信夫氏の調査では段丘裾部から縄文土器が発見され、「元住吉山遺跡」と名付け日本における縄文時代後期後半の標本遺跡となっています。とあります。
 「細田住吉前」バス停は、神戸市営地下鉄「西神中央」駅より8系統押部谷又は緑が丘行に乗車します。
 直良信夫(なおらのぶお、1902~1985)氏は考古学者、古生物学者で文学博士。明石原人や葛生人などを発見しています。松本清張の短編小説「石の骨」のモデルとされています。

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