蓼倉里の三身社(1)ー下鴨神社摂社三井神社の2

 三井神社は下鴨神社の第3摂社です。第2摂社は御蔭神社、そして第1摂社は河合神社です。三井神社は下鴨神社本殿に隣接しているという立地からしても下鴨神社にとって重要な存在であることが分かります。また下鴨神社本社や御蔭神社には祀られていない伊可古夜媛が祀られていることも特徴です。
  三井神社は延喜式神名帳の山城国愛宕(おたぎ)郡鎮座21座大8座小13座のうちの三井神社(みついのじんじゃ)大月次新嘗の論社です。もう一つの論社は河合神社末社の三塚社です。
 三井神社の所在地は京都市左京区下鴨泉川町(しもがもいずみがわちょう)59です。旧社地は現在の左京区下鴨塚本町(しもがもつかもとちょう)にあったとする研究があるそうです。
 三井神社については、当初賀茂氏の配下の神官白髪部氏が祭祀を行っていました。当時はまだ下鴨神社が分かれていませんでしたから、賀茂社の摂社でした。奈良時代(8世紀)に朝廷から白髪部氏に鴨禰宜白髪部、次いで賀茂縣主の姓が与えられて賀茂社からの独立が命じられます。そして賀茂御祖神社(下鴨神社)が創建されます。もともと白髪部氏が神官を務めていた三井神社は下鴨神社の摂社となったと言われています。この伝承からすると、三井神社の境内社の白鬚社は、白髪部氏に由来し、白鬚社の祭神の大伊乃伎命の孫の大二目命が建角身命を祀っていたということから、この白鬚社は白髪部氏の祖神を祀ったと考えられます。
 山城国風土記逸文には賀茂御祖神社(下鴨神社)の名前が出てきません。神社の名前として書かれているのは、三井社です。ということは山城国風土記が成立した時にはまだ下鴨神社は創建されていなかったということです。元明天皇が風土記の編纂を命じたのは和銅6年(713)です。上述の賀茂縣主の姓が与えられたのは聖武天皇の天平5年(733)です。その間に下鴨神社が分離したと思われます。井上光貞氏もこの期間に下鴨神社が創建されたとしています。そういうことから、三井神社は下鴨神社が創建される前から祀られていたということになります。
 三井神社の社殿は江戸時代初期の寛永6年(1629)の造営で重要文化財に指定されています。神社の説明によると、重要文化財 摂社三井神社 例祭3月7日  御祭神 東殿 伊賀古夜日売命 中殿 建角身命 西殿 玉依媛命 延喜式内の大社で、山城国風土記に「蓼倉の三身社」とあるは、この社のことである。合祀摂社日吉社(中殿) 末社諏訪社小杜社白鬚社(以上重要文化財) 末社合祀沢田社(中社)河崎社賀茂斎院神霊社(南社)。とあります。この説明の「中社」は「小杜社」、「南社」は「白鬚社」を指します。
 また三井神社の境内社の諏訪社は式内社の須波神社(すはのかみやしろ、小一座)の論社です。須波神社の論社は、上賀茂神社の境内摂社の須波神社(祭神は『神社霰録』では建御名方命、『神名帳考証』では阿須波神)。さらに下鴨神社の摂社河合神社の末社の諏訪社(建御名方命)と河合神社自身、そして三井神社の諏訪社。さらに左京区静市静原町(しずいちしずはらちょう)1351の静原神社(伊弉諾尊、瓊瓊杵尊)があります。三井神社の諏訪社は明治になるまでは鴨縣主一族より補任された本社の神官が奉祀し、明治以降は賀茂御祖神社の神官が奉祀して現在に至っています。
 井上光貞(いのうえみつさだ、1917~1983)氏は、東京大学名誉教授。国立歴史民俗博物館初代館長。井上馨と桂太郎の孫にあたります。




 

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