賀茂別雷大神の誕生(1)ー山城国風土記逸文その1

岩波書店が出版した『日本古典文学大系』第二巻「風土記」に、「釈日本紀一巻九一所収山城国風土記逸文」が収載されています。それを引用します。なあ文中の漢字の一部は旧字体から常用漢字に変えています。
山城の国の風土記に曰(い)はく、可茂(かも)の社(やしろ)。可茂と称(い)ふは、日向(ひむか)の曾(そ)の峯(たけ)に天降(あも)りましし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、神倭石余比古(かもやまといはれひこ•神武天皇)の御前(みさき)に立ちまして、大倭(やまと)の葛木山(かづらきやま)の峯(みね)に宿りまし、彼(そこ)より漸(やくやく)に遷(うつ)りて、山代(やましろ)の国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河(木津川)の随(まにま)に下(くだ)りまして、葛野河(かどのがは•桂川)と賀茂河との会(あ)ふ所に至りまし、賀茂川を見廻(はる)かして、言(の)りたまひしく、「狭小(さ)くあれども、石川の清川(すみかは)なり」とのりたまひき。仍(よ)りて、名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰(い)ふ。
彼(そ)の川より上(のぼ)りまして、久我(くが)の国の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。爾(そ)の時より、名づけて賀茂と曰(い)ふ。
賀茂建角身命、丹波(たには)の国の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいこかやひめ)にみ娶(あ)ひて生みませるみ子、名を玉依日子(たまよりひこ)と曰(い)ひ、次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰(い)ふ。
玉依日賣(たまよりひめ)、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢(にぬりや)、川上より流れ下(くだ)りき。乃(すなわ)ち取りて、床の邊(へ)に挿(さ)し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。
人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)、建角身命、八尋屋(やひろや)を造り、八戸(やと)の扉(とびら)を竪(た)て、八腹(やはら)の酒を醸(か)みて、神集(かむつど)へ集(つど)へて、七日七夜(なぬかななよ)楽遊(うたげ)したまひて、然(しか)して子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝(いまし)の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、即(やが)て酒杯(さかづき)を挙(ささ)げて、天(あめ)に向きて祭(まつ)らむと為(おも)ひ、屋(や)の甍(いらか)を分(わ)け穿(うが)ちて天(あめ)に升(のぼ)りき。
乃(すなは)ち,外祖父(おほぢ)のみ名に因(よ)りて、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と号(なづ)く。
謂(い)はゆる丹塗矢(にぬりや)は、乙訓(おとくに)の郡(こほり)の社(やしろ)に坐(いま)せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。
可茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)、玉依日賣(たまよりひめ)、三柱(みはしら)の神は、蓼倉(たでくら)の里の三井(みゐ)の社(やしろ)に坐(いま)す。
『風土記』は奈良時代に元明天皇が編纂を命じた地誌。原本は残っていませんが出雲国はほぼ完全に、また播磨国、肥前国、常陸国、豊後国の各風土記は一部欠損していますが写本が残っています。
逸文(いつぶん、いつもん)とは、かつて存在していたが現在は伝わらない文章、または他の書物に引用されて断片的に伝わる文章を言います。 
岩波書店の日本古典文学大系は全100巻。第1期(第1巻~第66巻)は昭和32年(1957)から昭和37年(1962)にかけ、第2期(第67巻~第100巻)は昭和42年(1967)までに刊行されました。また平成元年(1989)から平成17年(2005)にかけて新装版の形で一部を入れ替えて『新日本古典文学大系』100巻が刊行されています。同大系2の『風土記』は昭和33年(1958)4月の出版です。


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