乙訓坐大雷神社の論社ー角宮神社の1

「山城国風土記逸文」にある賀茂別雷神の父とされる乙訓郡に坐す火雷神を祀る社は『延喜式神名帳』にある「乙訓坐大雷神社(をとくににますおほいかつちのかみやしろ)」とされています。神名帳にあるこの神社は、「山城国乙訓郡十九座、大五座、小十四座」のうちの名神大社であり月次新嘗となっています。月次祭(つきなみさい)と新嘗祭(にいなめさい)には朝廷から奉幣を受ける格式の高い神社ということになります。この神社の論社は三社あります。角宮神社、向日神社に合祀された火雷神社、そして菱妻神社です。このうち角宮神社と、火雷神社を合祀した向日神社とは伝承が絡み合って複雑な部分があります。それを踏まえて、まず角宮神社から説明します。  
角宮(すみのみや)神社は京都府長岡京市井ノ内(いのうち)南内畑35にあります。祭神は主祭神の火雷神と配祀神の玉依姫、建角身命、活目入彦五十狭茅尊(イクメイリヒコイサチノミコト、第11代垂仁天皇)と春日神(三神)です。
角宮神社について、神社本庁の「全国神社祭礼調査報告」(平成7年)の内容は以下の通りです。 角宮神社 式内社。乙訓坐火雷神社、略して乙訓社とも言う。祭神は本殿に向かって左に主神火雷神と玉依姫、建角身命、活目入彦五十狭茅尊の四神を、右に春日神(三神)を祀る。乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社と共に国の大幣にあずかる名神大社としての社格の高い社であった。初見は「続日本紀」の大宝2年(702)の条で、殊に祈雨神として平安中期までは国史に度々出ている。承久の変(1221)で灰塵に帰し容易に復興を許されなかった。旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが文明16年(1484)今の地に再興され、井ノ内の産土神として祀られている。とあります。このなかにある春日神ですが、奈良の春日大社では、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の四神を祀っています。角宮神社ではわざわざ三神と書いていますから、比売神を除く三神を祀っていると思われます。
次に所在地の長岡京市の「展示コーナーだより第41号」には次のように書かれています。「乙訓坐火雷神社」と角宮神社 井ノ内にある角宮神社は、江戸時代には「乙訓社」「乙訓大明神」とも呼ばれ、村から選ばれた宮年寄によってまつられてきました。角宮神社は、江戸時代より向日神社(向日市)とともに延喜式内社「乙訓坐火雷神社」の論社となっていました。「乙訓坐火雷神」は、祈雨に効験のある神として広く知られ、大宝2(702)年に官社となり、長岡京遷都にあたっては従五位下の神階が与えられるとともに修理が行われています。平安京遷都後も祈雨•止雨の奉幣や神階昇進の記事が国史にしばしば見られます。となっています。
ここで紹介した資料にはどちらも延喜式神名帳の「乙訓坐火雷神社」だと書いています。神名帳には「乙訓坐大雷神社」となっています。神名帳に記載されている「乙訓坐大雷神社」が本来の社名ということになります。このブログでは神名帳の表記に従いたいと思います。
角宮神社には神社が建てた説明板などはないようです。
また祭神として垂仁天皇を祀っている理由もよく分かりません。



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