賀茂旧記に書かれた賀茂別雷大神の伝承

 当ブログの「賀茂別雷大神の誕生(1)ー上賀茂神社の伝承」では上賀茂神社の公式サイトの内容を紹介しています。これは『山城国風土記逸文』と『賀茂旧記(かもきゅうき)』を基に書かれています。『風土記逸文』はすでに紹介しましたので、ここでは『賀茂旧記』の内容について紹介します。『賀茂旧記』は『逸文』と重複する部分もありますが、後半の別雷神が夢に現れて神迎えの儀式を語る部分は『旧記』独自のものです。
 旧記に云く、御祖多々須(みおやたたす)玉依媛命(たまよりひめのみこと)、始めて川上に遊びし時、美しき箭(矢)流れ来りて身に依る有り。即ち之を取りて床下に挿す。夜、美男に化して到る。既に化身たるを知る。遂に男子を生む。其の父を知らず。是に於いて其の父を知らむが為に、乃ち宇気比酒(うけひざけ)を造り、子をして杯酒を持ちて父に供へしむ。此の子、酒盃を持ちて天雲に振り上げて云く、「吾(われ)は天神の御子なり」と。乃(すなわ)ち、天に上るなり。時に御祖神等、恋ひ慕ひ哀れ思ふ。夜の夢に天神の御子云く、「各吾に逢はむとするに、天羽衣•天羽裳(もすそ)を造り、火を炬(た)き、鉾を擎(ささ)げて待て。又、走馬を餝(飾)り、奥山の賢木(榊)を取り、阿礼を立て、種々の綵色(さいしょく)を悉(つく)せ、又、葵•楓(かつら)の蘰(かずら)を造り、厳(おごそか)に餝(飾)りて待て。吾、将に来たらむ」と。御祖神、即ち夢の教えに随ふ。彼の神の祭に走馬ならびに葵蘰•楓蘰を用ゐしむること、此の縁なり。之に因りて、山本に坐す天神の御子を別雷神と称ふ。とあります。
 『賀茂旧記』では、丹塗矢が男性の姿になって現れ、玉依媛はその男性が神の化身と知りながらちぎりを交わして男の子が生まれたとなっています。『逸文』では丹塗矢の霊力により懐妊したとなっていますから、『旧記』のほうが具体的です。生まれた子供が成人になった時に父に酒を飲ませようとする記述は『逸文』のほうが詳しいです。注目されるのは、『旧記』には玉依媛命の名前は書いていますが建角身命の名前は出てきません。御祖神等となっています。賀茂御祖神社の祭神は建角身命と玉依媛命ですから、わざわざ建角身命の名前を出さなくてもよかったのかもしれません。前にもこのブログで書いていますが、『山城国風土記』が編纂された奈良時代初めにはまだ賀茂御祖神社は創祀されていませんでしたから、風土記には建角身命の名前も書かれたのだと思われます。
 『旧記』の後半は、御子神が夢に現れて、降臨するための神迎えの儀式を詳しく述べています。これは葵祭の原型であるとともに、賀茂社で斎行される御阿礼神事の基でもあります。そして下鴨神社が分離したことで、下鴨神社の御生神事の基にもなります。
 『賀茂旧記』は、上賀茂神社の「賀茂神主経久記(かもかんぬしつねひさき)」と総称される6点の史料の中の一つです。鎌倉時代に神主(社務)を務めた賀茂経久の自筆とされる記録類で当時の上賀茂神社の様子を知ることのできる貴重な史料。『賀茂旧記』は、賀茂社に関する事項を記した年代記で、建久4(1193)年4月から文永11(1274)年8月までの記事があります。上賀茂神社の神事、競馬の様子や遷宮に関する記事、承久の乱を始めとする政治的事件など幅広い記事があります。2021年11月30日に第42回式年遷宮記念出版賀茂別雷神社史料として山代印刷(株)出版部より刊行されています。
 賀茂経久は氏久の息子として建長4年(1252)に生まれ、弘化9年(1286)に権祢宜、正和5年(1292)に祢宜、永仁元年(1293)に兄久世の譲りを受けて神主となり、以後延慶元年(1306)に辞するまでその地位にあり、西賀茂正伝寺の開祖とされています。『玉葉和歌集』などにも和歌が収められています。


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