御生神事の起源(2)

「御生神事の起源(1)」の続きです。『小右記』の記事は「御蔭山」の初見です。ここに書かれている内容は、御蔭山のある小野郷は上賀茂神社の所領であったが、下鴨神社の社司の久清は解文を差し出して、下鴨神社の旧記には「下鴨神社の祭神(皇御神と表現)は御蔭山に天降りされた」と書かれており、また栗栖野は下鴨神社の所領で、そこには桂や葵を採る山があり、これは先年に官符が下された通りであり、よって小野•栗栖の二郷は下鴨神社の所領とされるものであると朝廷に願い出たものです。その証拠となる祭神が初めて御蔭山に降臨したと書かれている旧記を提出するように言ったところ、康保二年に禰宜の家が火災に遭った時に焼けてしまったと答えたということが書かれています。
久清のこの申し出に対して朝廷が出した裁定が『類聚府宣抄』に収められた寛仁ニ年(1018)11月25日の太政官符であり、それによると久清の申し出は却下されています。
『類聚府宣抄(るいじゅうふせんしょう)』は天平9年(737)から寛治7年(1093)までの間の太政官符、宣旨、解条を部目別に分類して編集した法令集。別名『左丞抄(さじょうしょう)』。新訂増補国史大系(吉川弘文館)第27巻に収録されています。
この『小右記』の記事から、御生神事が平安時代にあったとする説となかったとする説に別れます。なかったとする説では「御蔭山」と書かれているが、「御生神事」とは書いていないということと、『旧記』は焼失したと言っているが、最初からなかったのではないかということが指摘されています。ただここで重要なのは「御蔭山」の「蔭」という言葉です。「蔭」とは「影」であり、「姿」ということです。神戸市東灘区の御影(みかげ)という地名は、神功皇后がその姿を「沢の井」という清水に映したことに由来し、「沢の井」は阪神電車の「御影駅」の高架下にあります。私も訪ねたことがあります。神が姿を現すことを「影向(ようごう)」と言いますが、御蔭山とはすなわち神が姿を現す、降臨する山ということになります。そこでは神が降臨する祭祀が行われていたと考えても矛盾はないと言えます。神が降臨するのにふさわしい山であるということです。さらに「御蔭山」が葵の採取地であることも下鴨神社にとっては重要です。賀茂祭は葵祭とも呼ばれ、賀茂社の神紋が葵であるなど、葵は賀茂社のシンボルです。この場所が葵の採取地であることについては、次の和歌に詠まれています。
「日影山生ふる葵のうら若みいかなる神のしるしならむ」『堀川院御時百首和歌』、「葵ぐさとるや御蔭の山辺には月の楓もことにみえたり」藤原清輔『夫木和歌抄』、「そのかみの御蔭の山のもろは草長き世かけて我やたのまむ」中原師光『為家集』。
藤原清輔(ふじわらのきよすけ、1104~1177)は百人一首に収められた「ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」で知られています。
中原師光(なかはらもろみつ、1206~1265)は新宮の速玉大社に参拝して「あまくたる神が願いをみつしほの湊にちかきちきのかたそき」の歌を詠み、勅撰和歌集『玉葉和歌集』の巻二十神祇歌に収められています。「ちきのかたそき」は「千木の片削ぎ」。
『為家集』は藤原為家(ふじわらのためいえ、1198~1275)の私家集。為家は定家の息子で、晩年に『十六夜日記』を書いた阿仏尼と同棲して生まれた子供の為相(ためすけ)を溺愛したことで、後に相続争いが起こります。

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