伊予湯岡碑ー恵慈と法興寺

 恵慈の母国の高句麗(こうくり、コグリョ)は、高麗(こま、こうらい、コリョ)の名前の方が一般的です。高句麗は最盛期には朝鮮半島の大部分、中国東北部の南部、ロシア沿海地方の一部を支配下にしていました。朝鮮史では、百済、新羅とともに朝鮮の三国時代を構成した一国になります。『三国史記』の伝承では、紀元前37年に建国されたとあり、5世紀に最盛期を迎えます。668年に、唐▪︎新羅の連合軍によって滅ぼされました。 
 法興寺ば飛鳥寺のことです。『日本書紀』では「法興寺」「元興寺(がんごうじ)」「飛鳥寺」などの表記が用いられています。「法興寺」や「元興寺」は法号ということだそうです。現在の飛鳥寺は奈良県高市郡郡明日香村飛鳥682にある真言宗豊山(ぶざん)派(本山は桜井市の長谷寺)の寺院で、山号は鳥形山(とりがたやま)。現在の寺は蘇我馬子が建立した時の中金堂の跡地に建っていて、正式名称を「安居院(あんごいん)」と言います。本尊は飛鳥大仏として有名です。国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」です。法興寺は蘇我馬子が開基(創立者)となり、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院です。崇峻天皇5年(592)に造営が開始され、『日本書紀』の推古天皇4年(596)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事があります。馬子の子供の善徳が寺司となり、恵慈と恵聡の2名の僧が住み始めました。当初の法興寺は、発掘調査により、中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂形式の伽藍であったことが確認されています。
 蘇我善徳(そがのぜんとこ、生まれ年は585か586年で没年は不明)は、ウィキペディアによると蘇我馬子の長男とあります。『日本書紀』巻第22「推古四年冬十一月法興寺造竟則以大臣男善徳臣拝寺司是日恵慈恵聡二僧始住給法興寺」とあります。馬子の息子としては、蝦夷(えみし)が有名です。蝦夷に比べて善徳のことは、法興寺の寺司となったというこの『日本書紀』の記事以外は、系譜も含めてよくわかりません。政治家としては有能ではなかったのかもしれません。蘇我蝦夷は『日本書紀』の推古天皇18年(610)の記事から、蝦夷の年齢について『扶桑略記』の記述によると25歳となり、法興寺の完成した推古天皇4年(596)には蝦夷の年齢は11歳となることから、善徳は蝦夷の兄と推定されています。
 恵聡(えそう、生没年不詳)は、慧聡とも書かれ、推古天皇3年(595)に百済から来日。翌年法興寺が完成すると恵慈とともに法興寺に住みました。恵慈に比べて、恵聡のことはよくわかりません。応長元年(1311)成立の『三國佛法傳通縁起』では、三論宗の学僧で、聖徳太子の仏教の師とあります。『三國佛法傳通縁起(さんごくぶっぽうでんつうえんぎ)』は鎌倉時代の仏教書。全3巻。著者は凝然(ぎょうねん)。インド、中国、日本における各宗の伝播状況を概説した仏教通史。凝然(1240~1321)は、鎌倉時代後期の華厳宗の僧で、伊予の出身。各宗の教義に精通しており、1307年に後宇多上皇が出家した際に導師を務めました。東大寺戒壇院の長老。著述は1200余巻といわれます。
 百済(くだら、ひゃくさい、ぺクチャ)は、朝鮮半島にあった国家のうちで日本との関係が最も深かったことで知られています。少なくとも4世紀前半頃までに漢城(現在のソウル)を中心に建国されたと考えられます。660年に滅亡しました。 
 法興寺が完成したことで恵慈が寺に住んだのが11月とありますから、聖徳太子に同行して伊予に来たのはその直前ということになります。


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