稲爪神社の摂社の熊野皇大神社と稲爪濱恵比須神社

 ウィキペディアでは「熊野皇神社」、
兵庫県神社庁や神社の石碑では「熊野皇大神社」となっており、どちらも「くまのこうだいじんじゃ」と読みます。神社近くの道標は「熊野皇神社」となっていますから、かつては熊野皇神社と称していたと思われます。このブログでは「熊野皇大神社」と書くことにします。
 熊野皇大神社は、明石市東人丸町(ひがしひとまるちょう)6ー6にある稲爪神社の境外摂社です。アクセスは山陽電鉄の大蔵谷駅から北西へ350m、人丸前駅から東南東へ350mといいますから両駅のほぼ真ん中にあるということになります。JRだと少し離れていて朝霧駅から徒歩15分になります。
 熊野皇大神社の現在の祭神は、兵庫県神社庁では、主祭神伊弉諾神、配祀神伊弉冉神、神社の石碑には伊邪那岐命、伊邪那美命となっています。この神社は、熊野三社権現を勧請して江戸時代に創建されましたから、江戸時代の祭神は熊野三所権現か熊野権現と呼ばれていたと思います。明治時代の神仏分離で権現号が使えなくなり、また祭神名を明確にしなければならなくなったため、祭神名をイザナギ、イザナミにしたということだと思います。
 神社の創立は寛永14年(1637)4月19日。創建年代がはっきりしています。この神社がどうして創建されたかというと、天正6年(1578)、織田信長家臣高山右近が播州へ進攻し、大蔵谷攻略の際、稲爪神社がその兵火に罹り焼失。この地(熊野皇大神社の場所)に小祠が建てられて稲爪神社は仮に祀られました。その後寛永14年に稲爪神社が再建され、還御の後、その小祠に明石城主▪︎松平丹波守光重が紀州熊野三社権現(熊野本宮大社▪︎熊野那智大社▪︎熊野速玉大社)を勧請して創立したということです。いわば不要になった社殿を再活用したということです。
 松平光重(まつだいらみつしげ)は、明石藩の2代目藩主。その後、美濃国加納藩の初代藩主になります。従五位下丹波守。大坂城代を2度務めています。元和8年(1622)に生まれ、寛文8年(1668)に亡くなっています。寛永11年(1634)8月、明石藩主であった叔父の松平庸直(やすなお)が嗣子なくて死去したため改易されるところ、光重の祖父の康長(やすなが)が将軍家光に幼少から仕え、勲功も多かったことから、光重に家督の相続が許され明石藩主になりました。その5年後の寛永16年(1639)明石より転じて美濃国加納城に入ります。加納城は岐阜市にあった城で、岐阜城に代わって家康の天下普請により築かれました。光重が明石藩主だったのは5年間で、明石藩主となった3年後に熊野皇大神社を創立しています。光重は熊野権現の信者であったということでしょうね。
 稲爪濱(浜)恵比須神社は稲爪神社本殿の右側(東側)に南向きに鎮座しています。すなわち境内摂社になります。拝殿と本殿からなり一つの独立した神社の体裁を取っています。拝殿は桟瓦葺の平入り入母屋造に向拝付き。本殿は銅板葺の一間社流造。祭神は事代主命。毎年1月の初えびす祭は大勢の参拝者で賑わいます。1月9日~11日の9時から19時半。明石市無形民俗文化財「大蔵谷の囃口(はやくち)流し」が奉納されます。これは江戸時代における庶民の謡いの一端を知ることのできる貴重なもので秋の例祭の宵宮に宮入りした後に氏子の家々をまわり戸口で謡ったものです。
 境内社として、稲爪神社拝殿前の参道の右側(東側)に沿って五つの小社が西向きに並んでいます。北から「白玉稲荷神社」「八将神社」「名称不明の神社」「猿田彦神社」「庚申社」です。


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