伊予の国造から国造について考えるー五氏の系統

 「愛媛県史」の伊予の国造に関する記事を紹介しました。これを読んだだけで「なるほど!よくわかりました」とは言えないと思います。まずは登場人物の名前です。古代の人ですから何と読むのかわかりません。そして国造の系譜です。同祖という言葉で親戚関係にあることが書かれていますが、これも一読しただけでは理解することが難しいです。しかしこの系譜を読み解いていくと国造とはどういう存在だったのか見えてきます。そこから金沢市御所町の八塚山に葬むられたと伝えられる初代加我国造の大兄彦君と、加宜国造となった素都乃奈美留命についても理解できる手がかりが得られかもしれません。 
 まず、「愛媛県史」の伊余国造の記述の中で、「国造本紀」では初代伊余国造の速後上命は印旛国造(印波国造)の祖先である敷桁波命の子孫とあるが、『古事記』では、速後上命は神八井耳命の後裔であるとあるので両者の間に矛盾がみられるからこの系譜には疑問の余地があると書いています。これについて歴史民俗博物館の研究報告では、速後上命は神八井耳命の子孫、すなわち神武天皇の後裔であると結論づけています。したがってこの結論から言えは、速後上命の系譜には矛盾かないということになります。
 伊予の国造五氏について、歴史民俗博物館の研究報告に記載されている「国造本紀」の文章と、そしてその国造が、どの系統に属するかをみていきます。
「愛媛県史」の第一に書かれている「伊余国造」は、研究報告では神武天皇系に分類され、「国造本紀」には「志賀高穴穂朝御代。印旛国造同祖敷桁波命児速後上命。定賜国造」とあります。成務天皇の時代に国造に任じられています。二番目に挙げられている「久味国造」は研究報告では神魂尊系に分類され、「国造本紀」には「軽嶋豊明朝。神魂尊十三世孫伊予主命。定賜国造」とあります。伊予主命は「県史」では「伊與主命」と書かれています。軽嶋豊明朝は応神天皇の時代になります。三番目の「小市国造」は、研究報告では饒速日命系に分類され、「国造本紀」には「軽嶋豊明朝御世。物部連同祖大新川命孫小到命。定賜国造」とあります。「小到命」は「県史」では「小致命」と書かれています。「県史」では、その後に怒麻国造と風早国造の名前が挙げられています。
「怒麻国造」は、研究報告では、天湯津彦命系に分類され、「国造本紀」には「神功皇后御代。阿岐国造同祖飽速玉命三世孫若弥尾命。定賜国造」とあります。「若弥尾命」は「県史」には「若彌尾命」と書かれています。「天湯津彦命」という名前はあまり知られていない名前です。「怒麻国造」について述べる際に説明します。
「風早国造」は、研究報告では「小市国造」と同じく饒速日命系に分類され、「国造本紀」には「軽嶋豊明朝。物部連祖伊香色男命四世孫阿佐利。定賜国造」とあります。
 伊予の国造五氏のうち、最も早く国造に任じられたのは伊余国造で、次が神功皇后による怒麻国造の任命であり、久味国造、小市国造、風早国造は応神天皇による任命となります。神功皇后は天皇にはなっていませんが、夫の仲哀天皇が亡くなった後、遺児の応神天皇が成長するまで摂政となりました。そういうことから、神功皇后の御代ということは、仲哀天皇の崩御から応神天皇の即位の間ということになります。


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