加我国造は雄略天皇の任命、加宜国造は仁徳天皇の任命

 『福井県通史』には、加賀について、「国造本紀」に加我国造と加宜国造の二つの項目があるとあります。現在の石川県は古代には越前国であり、奈良時代の養老2年(718)にまず能登国が分けられ、平安時代の嵯峨天皇の弘仁14年(823)に加賀郡と江沼郡が越前国から分けられて加賀国が成立します。加賀郡と江沼郡を支配したヤマト王権の地方官である国造は、加我国造、加宜国造、江沼国造がいたとされています。このうち江沼国造はその名が示すように江沼郡を支配していたと思われますが、問題は加賀郡を支配していたであろう加我国造(かがのくにのみやつこ)と加宜国造(かぎのくにのみやつこ、あるいは、かがのくにのみやつこ)の存在です。
 加我国造は、「泊瀬朝倉朝御代、三尾君祖石撞別命四世孫大兄彦君定賜国造」 とされています。泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇が営んだ宮殿です。伝承地は奈良県桜井市黒崎(くろざき)もしくは岩坂(いわさか)とされ、黒崎の白山神社境内には「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建てられています。1984年(昭和59)同市脇本(わきもと)にある脇本遺跡で、5世紀後半のものと推定される掘立穴が発見されており、考古学的見地から朝倉宮の有力な候補地とされています。ウィキペディアによると泊瀬朝倉宮は雄略天皇が在位した456年から479年までの宮殿と考えられているが、それ以降も引き続き皇居とされたとの説もある。とあります。雄略天皇は埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣の銘文などから考古学的に実在が確実とされています。允恭天皇の第五皇子で、安康天皇の同母弟。「記紀」によれば反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せて帝権を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされています。中国南朝宋国の正史『宋書』にある倭の五王、讃•珍•済•興•武のうちの倭王武とされています。強力な専制君主から地方長官に任じられていますから、大兄彦君は雄略天皇に信頼された人物だったのでしょう。彼が加我国造に任じられたのは、雄略天皇が泊瀬朝倉宮で統治していた456年から479年の間と考えられます。 
 次に加宜国造に任じられた人物として素都乃奈美留命が登場します。難しい名前です。「そつのなみるのみこと」と読むようです。この人物が加宜国造となったのは、「難波高津朝御世」とあります。神社の高津宮(こうづぐう)は、大阪市中央区高津1ー1ー29に鎮座する旧府社です。祭神は本座に仁徳天皇。左座には応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。右座には履中天皇、葦姫皇后が祀られています。仁徳天皇自身と父親、祖父母、息子、そして妃ということでしょうが、仁徳天皇には葦姫という名前の皇后はいません。履中天皇の妃も葦姫ではありません。葦姫とは誰でしょうか。この高津宮は仁徳天皇が皇居とされた場所に鎮座しているとされますが、史跡としての難波宮(なにわのみや)は現在、大阪市中央区法円坂に難波宮跡があります。ここは孝徳天皇や、その後の聖武天皇の皇居跡です。大阪城の近くです。もしかすると仁徳天皇の皇居もこの近くにあったかもしれません。「高津宮址」の石碑は大阪府立高津(こうづ)高校の正門を入って左へ数10メートル奥にあります。高津高校の場所は大阪市天王寺区餌差町(えさしまち)10番47号です。石碑を見たい場合は高校の事務所に申し出るそうです。仁徳天皇が実在したとすれば、ウィキペディアによればその在位は394年から427年頃となっています。それに従えば素都乃奈美留命が加宜国造に任じられたのは5世紀初め頃になります。

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