鈴木重家の後日談(2)ー秋田県羽後町の鈴木家の伝承

秋田県雄勝(おがち)郡羽後町(うごまち)飯沢(いいざわ)字先達沢52番地に国の重要文化財に指定された「鈴木家住宅•.染付蔵」があり公開されています。この住宅は江戸時代前期に建てられ、現在も鈴木さんが住んでおられます。所有者が現住する住宅としては東北最古の建物です。所有者の鈴木さんの先祖は平泉から落ち延びた鈴木重家と伝えられています。
「鈴木家住宅」のサイトによりますと、義経は文治三年(1187)、奥州平泉の藤原秀衡を頼り高館に住んでいました。文治五年(1189)に重家は藤白の実家に手紙を送り、主君義経や弟の亀井六郎の消息を伝えています。これは天保年間(1830~44)に当時の当家38代当主杢之助が藤白の鈴木宗家を訪ね、宗家118代鈴木善重氏から書簡の写しを受けて掛け軸にしたものが現存しています。平泉では秀衡が亡くなった後、子の基衡は頼朝に寝返り義経を襲撃します。義経は持仏堂に立て籠り弁慶ほか七人の家臣とともに戦います。そのさなか義経は重家を呼んで「汝は紀州藤白に父と妻子あり、立ち帰って孝養を尽くせ。我は汝の弟、亀井六郎重清を連れて蝦夷に落ちる。」との厳命を下しました。重家は主君の命に従ってこの場所を立ち去ったと言われています。重家は平泉より三人の従者を連れて奥州の山険を西に越え、最上に入り、羽黒の山の近くに行ったところで、「我、このまま紀州に落ちてあるを、もし頼朝の耳に達しなば、追手がかかるは必定」と思い、家来の竜神六右ェ門尉に命じ、「我は高館にて主君ともに討死」とさせ、形見の品々を持たせて紀州藤白に帰しました。その後重家は羽黒山の神殿の近くに、鎧、兜、太刀等を埋め、姿をやつしてさらに北に進み秋田領を目指して落ちていったのです。とあります。まるでドラマの場面を見ている感じがします。
別の資料によると、重家は落ち武者となって山形から秋田に入り、湯沢から山田(旧雄勝郡山田村、現在は湯沢市)を経て伊沢(飯沢)に着き、土着帰農すると名前を杢之助(もくのすけ)と改めたとされ、鈴木家では代々杢之助を襲名して現在に至っています。鈴木家は戦国時代にはこの地方を支配した小野寺氏から田長(たおさ)役を命じられ、江戸時代には藩主の佐竹氏から肝煎役(きもいりやく、庄屋や名主の役目)を仰せつかり、文政13年(1830)には名字帯刀を許されています。この羽後町の鈴木家は東北地方の鈴木姓の総本家とされており、熊野信仰を広めながら東北各地に一族が広がっていったということのようです。
小野寺氏(おのでらし)は出羽国(現在の山形県と秋田県)に勢力を誇った豪族で、本姓は藤原氏とされていますが、守部氏(もりべうじ)ともいわれます。早くから東北各地に分家が展開していきます。守部氏は尾張氏と祖先を同じくするということですから、祖神は天火明命、すなわちニギハヤヒということになります。
重家の後日談はまだ続きます。義経の蝦夷行きとは違った感じではありますが、重家も東北地方の人にとっては英雄とみられたのでしょうね。

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