南河内郡河南町のニギハヤヒを祀る神社(2)

磐船大神社の場所は大阪府と奈良県の境、平石峠の近く。ここには岩橋山(658.8m)があります。岩橋山はかつて役行者と地主神の一言主神とで、ここから吉野の金峰山まで岩の橋(久米の岩橋)を架けようとしたという伝説から名が付けられました。平石とか岩橋とか磐船とか、さらに岩湧山(いわわきさん)もあって岩の多い場所のようです。
岩橋山に一言主神の伝説がありますから、前章で紹介した「鴨習太神社」は現在は境内社になっていますが、もともとの祭神は一言主であって、ニギハヤヒではなかったという可能性があります。
磐船大神社へのアクセスですが、金剛バスが令和5年12月20日で事業を廃止しましたから、河南町役場で問い合わせて頂く方がよいと思います。以前のルートですとバスを降りると平石峠を通る竹内河南線を500mほど上り、「この先車両通行不可」の看板のある分岐を左に入り、墓地の前を通って300mほど上ると富貴寺の山門があり、その前を左に進むと斜面の木々の中を行く道になり、多少のアップダウンはありますが約400mほど歩くと鳥居があります。森林浴を兼ねて歩くのにも良さそうです。
河南町にはもう一社「磐船神社」があります。平石から約1.5km南の持尾(もちお)地区にあります。この神社は平石の磐船大神社から勧請されたもので、祭神は饒速日命。創建年は不詳だそうですが、平石村と持尾村はもとは一つの村であったのが慶長13年(1608)に分村したそうですから、その頃に勧請されたのでしょう。大正時代の『郷土史の研究』によると、当社は「持尾神社」とあり、磐船大神社の摂社で、祭神は饒速日命となっています。磐船大神社の境外摂社の位置づけだったようです。拝殿の額は「磐舟神社」。はっきりした番地はわからないですが、「だんじり小屋」が1042のようですからその付近です。地区の集落センターが目印です。近くに楠木正成が築いた山城「持尾城跡」があります。
この持尾の南に西行終焉の地で墓もある「弘川(ひろかわ)寺」があります。松尾芭蕉が訪ねようとして果たせなかった場所です。西行の「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」とあるように桜の名所でもあります。
磐船大神社と関係の深い高貴寺(こうきじ)は平石539にあり、日本遺産「葛城修験」の構成文化財の一つです。山号は神下山。高野山真言宗の寺院です。文武天皇の勅願で役行者の開山。役行者が草創した二十八箇所の修験道場(葛城二十八宿)の一つで、古くは底筒男命(ソコツツノオ)が降臨したとされ山号の由来になっています。空海がこの寺で高貴徳王菩薩が現れるのを見たことから高貴寺となりました。江戸時代の安永5年(1776)に慈雲(じうん、1718~1805)が入寺。慈雲は大和郡山藩主柳沢保光の帰依支援を受けて堂舎を整備しました。慈雲は独自の視点から「雲伝神道(うんでんしんとう)、葛城神道」を唱えました。これは日本の神道は密教に基づく曼陀羅観に一致するとして、密教の教義によって解釈された神道の一派。旧来の両部神道の再構築を図ったもので儒学を批判し、日本は聖人の出現を必要としない神国であるとするなど、従来の神仏習合とは異なり復古神道に近い立場でした。この雲伝神道の根本道場が磐船大神社でした。

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